北条氏政

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北条 氏政(ほうじょう うじまさ、天文7年(1538年) - 天正18年7月11日1590年8月10日))は、戦国時代相模国戦国大名武将後北条氏の第4代当主。

生涯[編集]

生まれ[編集]

父は第3代当主の北条氏康で次男。母は今川氏親の娘・瑞渓院殿。子に北条氏直など。正室の黄梅院武田信玄の娘で、武田義信武田勝頼今川氏真とは義兄弟にあたる。

幼名は松千代丸(まつちよまる)。氏政は本来は嫡子では無かったが、嫡子として生まれた氏親が天文21年(1552年)に16歳で早世したため、次男であった氏政が氏康により嫡子とされた。元服の時期に関しては15歳であった天文22年(1553年)と推定され、後北条家歴代当主の仮名である新九郎(しんくろう)を称した。天文23年(1554年)に氏康・信玄・今川義元の3者の間に甲相駿三国同盟が成立すると、その一環として信玄の長女・黄梅院殿を正室に迎えることになった。

家督相続と上杉謙信との戦い[編集]

後北条家の関東では、永禄年間初期頃から度重なる戦乱による領国の疲弊、飢饉などで問題が発生していた。このため、氏康は世直しのために新たな当主を据えて心機一転を図るため、永禄2年(1559年12月23日に家督を氏政に譲って第4代当主とした。ただし、氏康は隠居したといっても氏政はまだ21歳の青年でしかなく、氏康は氏政に政治を任せ軍事は氏康が主導していた。

永禄3年(1560年5月桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れて戦死し、これにより三国同盟に動揺が走ると、それを見た越後国長尾景虎関東管領上杉憲政を擁して関東への侵攻を開始した。氏政は氏康と共に防備を固めて迎え撃とうとするが、景虎の勢いの前に武蔵国北部までがほとんど蹂躙されてしまい、永禄4年(1561年3月には遂に長尾軍に小田原城まで包囲されて攻撃されることになる。氏康・氏政は同盟者の信玄に北信への侵攻を、氏真には支援を要請し、それにより小田原城の堅城ぶりをもって何とか凌いだ。長尾側は連合の集まりだったことから乱れもあり、長尾軍が長期戦の問題などからもあって撤退すると、氏政は氏康と協力して景虎に奪われた関東各地の長尾領を攻撃する。氏政は離反した国衆を各個撃破する戦術をもって勢力の回復を進めてゆき、永禄9年(1566年)まで長尾景虎(上杉政虎・輝虎)と関東をめぐって争うが、上杉側は信玄との川中島の戦い越中国での神保氏一向一揆との戦いもあって関東だけに集中することができず、次第に氏政が優位になってゆき、上杉側の国衆の大半を北条家に服属させて、関東の支配を確固たるものにしていった。

武田信玄との戦い[編集]

桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、今川氏は急速に衰退していた。跡を継いだ氏真が凡庸な上、織田信長と通じた松平元康が独立し、それに影響されて遠江国でも騒乱が発生。さらに永禄11年(1568年)には今川家を何とか支えていた寿桂尼までが死去するなど、最早今川家の落日は明らかだった。

これを見た甲斐国の武田信玄は、川中島の戦いで上杉輝虎に手痛い被害を与えられていて北進を断念していたこともあり、矛先を今川氏に向けようとしていた。信玄は義信事件で嫡子の武田義信とその一派を粛清すると、あからさまに氏真に対して圧力をかけるようになり、氏政に対しても今川領の分割を提案してくるようになる。氏康・氏政らはこの提案を拒否している。

永禄11年(1568年12月、信玄は今川家との同盟を破棄して駿河侵攻を開始し、氏真を遠江に追い払って駿河を占領した。これにより三国同盟は完全に破綻し、氏政は氏真に味方し、信玄と敵対することを決定。そして信玄に対抗するため、三河国の徳川家康、さらに長年の宿敵であった越後の上杉輝虎に対して同盟締結を求めた。家康との同盟は、信玄が遠江にまで侵攻して家康に圧力をかけていたことからあっさりと成立したが、輝虎との同盟はなかなか進まなかった。長年の敵対などや利害問題などが重なったためで、氏康と氏政は信玄に対抗するために輝虎に対して「上野国武蔵国北部国衆の上杉氏への帰属、氏政が輝虎を関東管領と認めること」など大幅に譲歩した条件を提示することで、永禄12年(1569年6月越相同盟は一応の成立を見ている。

その上で、氏政は信玄と戦うが、信玄との戦いは劣勢であり、武田軍に駿河の大半を再度奪われた上、武蔵国の一部まで奪われ、さらに小田原城にまで攻め込まれてこのときには数日で信玄は撤退したが、その帰途を襲おうとした三増峠の戦いで北条軍は武田軍に敗れてしまった。この一連の戦いで氏政は輝虎に北信の武田領への侵攻、並びに小田原への後詰などを要請したが、輝虎はいずれも黙殺して支援しようとしなかったので、越相同盟は早くも破綻してしまった。また、一連の戦いで信玄の強さを思い知らされた氏政は、氏康の指導もあって越相同盟を破棄して甲相同盟を締結しようと模索しだした。この頃、氏康は56歳の年齢もあって既に病身であり、永禄8年(1565年)を最後に氏康が出陣した形跡が無い事などから、氏康から氏政への権力移譲がかなり進められていた可能性がある。また、永禄9年(1566年)5月に氏政は氏康から左京大夫の官職を譲られており、永禄年間後期には既に名目上の当主では無く、実質的な当主だった可能性も推測されている。

元亀2年(1571年)10月に氏康が死去し、これにより氏政は名実共に後北条家の当主となった。氏康が死ぬ直前に氏政に対して「信玄との同盟」を遺言していたとされることもあり、氏政はこれまでの外交関係の転換を実施。この年の年末には信玄との間に甲相同盟を成立させて越相同盟を破棄し、再び上杉謙信との争いを再開した。

元亀3年(1572年)10月に武田信玄が西上作戦を開始すると、氏政は信玄に対して同盟に基づいて2000人の援兵を送っている。

事実上の当主として[編集]

氏政は上杉謙信との抗争を再開したが、越相同盟の成立で実は関東諸侯の大半は謙信を見限るようになっており、そのため関東諸侯の多くは氏政に味方するようになっていて後北条家の関東支配はスムーズに進むようになった。天正2年(1574年)には古河公方足利氏の再統合を果たしている。

天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、これにより武田家は急速に衰退する。勝頼は氏政との同盟強化を求め、氏政はこれに応じて天正4年(1576年)に妹の北条夫人を勝頼の正室として嫁がせた。また、この天正4年(1576年)を最後に上杉謙信の関東遠征は終了し、事実上、上杉家との戦いに一応の勝利をしたことになった。以後、氏政は関東北部の佐竹義重らと抗争を繰り返してゆくようになる。

天正6年(1578年)3月に上杉謙信が急死。その後継者をめぐって養子景勝景虎が争うようになる(御館の乱)。景虎は氏政の実弟だったことから氏政は景虎を支援し、氏政は氏照・氏邦を大将とした北条軍を送り、さらに同盟相手の武田勝頼にも支援を求めた。ところが、勝頼が景勝に通じて和睦したことから、一転して景虎側は不利になり、天正7年(1579年)に景虎は自刃してしまう。この対応の違いが原因で、同年7月に氏政は勝頼との甲相同盟を破棄した。勝頼は氏政と対抗するために景勝だけではなく、佐竹義重などとも結んだため、氏政は勝頼と敵対している徳川家康、そして織田信長と同盟を結んで対抗した。

勝頼との一連の戦いは、長篠で大敗して多くの重臣を失っていたとはいえさすがに強い武田軍、特に真田昌幸が担当する上野戦線では押される一方であり、氏政は当時、中央で既に織田政権を確立していた信長に対してさらなる支援を求めるため、天正8年(1580年)3月には同盟ではなく、信長への臣従を表明した。信長も氏政の臣従を認め、その条件として氏政の嫡男・氏直に信長の娘を嫁がせることまで決められたので、これを受けて氏政は同年8月19日に家督を氏直に譲っている。これは、氏直が信長の娘を当主として迎えるほうがよいと考えたのと、やはり氏康の時と同じように心機一転の想いがあったためかと言われている。以後、氏政は「御隠居様」と称されるようになり、名も截流斎(せつりゅうさい)と号している。ただし、第5代当主に就任した時点の氏直はまだ19歳の若さであり、実権は氏政が依然として掌握していた。

武田勝頼・織田勢力との戦い[編集]

武田勝頼との戦いは一進一退を繰り返していたが、勝頼は次第に家康の攻勢に押されるようになり、天正9年(1581年)には遂に高天神城岡部元信を失ってその衰退が明らかとなる。そして天正10年(1582年)2月からは木曾義昌の離反が引き金となって、織田信長による武田征伐が開始された。これに氏政も呼応して武田領に攻め込み、家康にも攻められた勝頼は3月に天目山で自刃し、武田家は滅亡した。しかし、戦後の所領分配で氏政・氏直らは信長からほとんど無視された冷淡な対応を受けている。

それからわずか3か月後の6月、本能寺の変で信長が横死し、織田政権は大混乱状態となる。信長から上野国主に任命されて関東の差配を任されていた滝川一益も動揺し、これを見た氏政は氏直や氏邦らを大将とした北条軍を上野に派遣し、神流川の戦いで苦戦の末に滝川軍を破って上野を北条領とした。またこれは同時に、織田家からの独立も意味している。

さらに北条軍は旧武田領の甲斐国信濃国などにも進出し、これらをめぐって上杉景勝、徳川家康と対戦した(天正壬午の乱)。この対戦で北条軍は家康相手に大苦戦したこともあり、10月に氏政・氏直は家康との和睦を決断。家康の次女・督姫を氏直の正室として迎え、その代償として上野は北条領、甲斐と信濃は徳川領とする協定・同盟を締結することが決定された。

なお、この一連の出兵や外交に関しての最終決定は全て氏政が担当していたとされており、なおも主導権は氏政が掌握していた模様である。氏政の出陣に関しては天正12年(1584年)を最後に見られなくなり、この前後から氏直への権力移譲が開始された可能性がある。

滅亡への道[編集]

天正10年(1582年)閏12月に古河公方の足利義氏が死去すると、義氏に後継となる男子がいなかったことから、古河公方は事実上断絶して氏政は公方家領国の支配も担うようになる。さらに関東各地の支配も順調に進めてゆき、氏政は隠居ながら行政・外交を主導する事実上の当主として北条家に君臨していた。

信長の死後、中央では柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉の勢力が拡大。これに対抗するため、徳川家康は信長の次男・織田信雄を擁して小牧・長久手の戦いで秀吉と対戦する。この際に家康は氏政にも支援を要請しているが、氏政は関東諸侯との戦いもあって支援はできていない。また、秀吉は氏政を牽制するため、上杉景勝や佐竹義重らと手を結んだので、秀吉と氏政は嫌が上でも敵対関係になってしまった。

小牧・長久手の戦いの後、家康は家臣の石川数正小笠原貞慶の出奔、真田昌幸との上田合戦での敗北もあって秀吉との戦いが不利になったこともあり、秀吉が生母の大政所を人質として送って来るに至って家康は天正14年(1586年)に遂に秀吉に臣従した。

これにより東海地方まで支配下に収めた秀吉の次なる敵は氏政となってしまう。同年から天正15年(1587年)にかけての九州征伐島津義久を屈服させた秀吉は、次なる目標を関東に定めた。これに対して氏政は天正15年(1587年)から関東各地の防衛体制を強化し、天正16年(1588年)には小田原城に軍勢を招集するなど、軍備増強を目指した。しかしその一方で、家康を通じて秀吉との和睦交渉も開始。天正16年(1588年)5月には一応この交渉はまとまり、氏政は秀吉に臣従することを条件にして、実弟の氏規を8月に上洛させて秀吉に謁見させている。

しかし、秀吉が求める氏政か、あるいは氏直の上洛、つまり当主による直々の臣従表明に対して氏政は応じようとしなかった。そしてなぜかこの頃から、氏政は政務にほとんど関与しなくなり、そして実際に隠居するとまで表明したりしている。

天正17年(1589年)、北条家は秀吉に対し、7年前の天正壬午の乱から始まった真田昌幸との上野の沼田城の帰属問題が解決するならば、氏政と氏直は上洛すると表明した。これに対して秀吉は氏政に大幅に譲歩した裁定案を提示し、これを受けて氏政・氏直は12月に上洛することを表明した。ところが10月末に北条氏邦の家臣・猪俣邦憲によって名胡桃城事件が引き起こされてしまうと、これを理由にして秀吉との関係は破綻。秀吉は名胡桃城事件を大義名分にして小田原征伐を行なうことを決定した。

滅亡、そして最期へ[編集]

氏政は天正18年(1590年)1月に一族や重臣を招集して、小田原城で対策軍議を開いている。この際、弟の氏照や氏邦らは出撃して黄瀬川箱根の天嶮を利用した迎撃策を主張したが、氏政は重臣・松田憲秀の籠城策を採用して退け、関東各地の諸城の守備を固めて敵の疲弊を待つ戦術をとることにした。これはかつて、上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めてきた時と同じやり方だった。

同年の3月から豊臣秀吉の海陸20万を超える大軍が小田原征伐を開始。これに呼応して関東北部の佐竹義重らも動いたため、関東各地の北条方の城は豊臣軍に攻められることになった。山中城が豊臣軍に落とされると一気に小田原城まで攻め込まれ、大軍に包囲されてしまう。秀吉得意の築城戦術で造られた石垣山城などもあって北条軍の戦意は急速に低下。関東各地の城も氏邦の鉢形城、氏規の韮山城など各地の城が豊臣の別働隊によって次々と落とされ、小田原城は孤立してゆく。結果的に小田原城が開城するまで籠城していたのは、甲斐姫が活躍した忍城だけという有様であった。

7月5日、氏直は自らの命と引き換えに小田原城内にいる将兵の助命を秀吉に嘆願して投降する。秀吉は氏直が家康の娘婿に当たり、また神妙な態度であったことから助命したが、一連の戦いで主戦派と見なされていた氏直の父の氏政・叔父の氏照の切腹を命じた。

氏政はこれに応じて7月10日、小田原城から出城する。そして翌11日、氏規の介錯の下に氏政は氏照と共に切腹して[1]、こうして戦国大名としての後北条家は滅亡した。53歳没。

辞世の句:「ふきとふく、風なうらみそ、花の春、もみぢの残る、秋あらばこそ」(花の春や散らす風を恨まないでほしい。紅葉の残る秋もまたあり得ないのだから)

人物像[編集]

氏政は結果的に後北条家を滅亡させたことから、現在では凡庸・暗愚と評価されることが多い。江戸時代に成立した軍記などでも氏政は特に劣悪な評価を与えられており、曾祖父の早雲、祖父の氏綱、父の氏康が英主として讃えられているのに対し、氏政は愚君・暗君と評価されるケースがほとんどである。ただし、対秀吉外交を除けば氏政の政策にほとんど間違いは無く、また氏政の時代に後北条家の所領は最大版図を達成しており、ただ結果的に見ただけで「暗愚」と評価して良いのかには疑問も呈されている。

後代に成立した逸話には、いずれも氏政を暗愚と伝えるものが多い。

  • 父の氏康が当主の地位を氏政に譲ってしばらくして「お前は国を譲られて、今は何を楽しみにしている?」と質問したので氏政は「家臣を採用して、その能力の有る無しを見るのが楽しみ」と答えた。氏康はそれに対して「それは良いことだが、上に立つ者としては当然のことだ。家臣も主君を選ぶのだ。隣国と戦い、日頃、家臣を大事にせず、庶民に慈悲をかけなければ、家臣は他国に去って新たな名君を求めてしまうだろう。家臣を愛し、庶民を慈しむのは今のお前にとっては当然のことなのだ」と諭したという。
  • 氏政の有名な逸話として特に知られる「汁かけの話」がある。これは氏康と氏政が共に食事をしていた際、氏政が汁を1度飯にかけたが、汁が少なかったのでもう1度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。
  • 農民が麦刈りをする様子を氏政が見て「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったという話がある。刈った麦はそのまますぐ食べられる訳でなく、干し、脱穀し、精白するなどして、ようやく調理できるようになる。その話を伝え聞いた武田信玄がその無知ぶりを大いに笑ったという(『甲陽軍鑑』)。
  • 小田原城が豊臣軍に包囲され、関東各地の城が次々と落とされているにも関わらず、氏政は家臣や一族と無為に長々と評定を繰り返し、これは後世に小田原評定という言葉を残した(ただし、対策を練ろうとするのは当然のことであり、これを単に無為な評定と片付けるのはいかがなものかである)。

この他にも、近年の大河ドラマや書籍関係では氏政を暗愚な人物と表しているものが非常に多い。ただ、これらはいずれも結果論であり、早雲や氏康に劣っていたのは確かとしても、そこまで言われるほど暗愚だったのかには疑問点をつけざるを得ない。

系譜[編集]

両親
兄弟姉妹


妻妾
子女


猶子
養女

偏諱を与えた人物[編集]

関連作品[編集]

軍記
能楽
TVドラマ

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. 「氏政、53歳にして秀吉公のために切腹し給いぬ。盛者必衰の世のならひ、嘆てもかひかなるべし」(『北条五代記』)
  2. 沼津史談会『沼津史談 第36号』
  3. はかなき我が身 天下人 能を舞う”. 読売新聞 (2013年9月4日). 2018年2月6日確認。
  4. 能楽師・柴田稔Blog:2007年7月17日[1]
  5. 北條五代祭り 高嶋政伸さんの「氏政」に大声援 小田原”. 毎日新聞 (2017年5月4日). 2017年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月5日確認。
  6. 第54回北條五代祭り 勇姿ふたたび 早雲 合田雅吏さん、氏政 高嶋政伸さん”. タウンニュース. 株式会社タウンニュース社 (2018年3月3日). 2018年5月3日確認。
  7. 北條五代祭りで勇壮戦国絵巻 一族役に合田さん、高嶋さん”. カナロコ. 神奈川新聞 (2019年5月4日). 2019年8月1日確認。