本能寺の変

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
本能寺の変
戦争: 本能寺の変
年月日: 1582年6月2日未明
場所: 山城国本能寺
結果: 明智光秀軍の勝利
交戦勢力
織田家家紋.png織田軍 桔梗紋.png明智軍
指揮官
織田信長
森成利
明智光秀
安田国継
斎藤利三
戦力
織田軍
160?
明智軍
13000
損害
ほぼ全員自害・死亡 不明

本能寺の変(ほんのうじのへん、英:Honnō-ji Incident)とは、1582年6月2日未明に起こった、織田信長明智光秀の謀反により本能寺に火を放って自害したとされる事件である。

概要[編集]

天正10(1582)年、本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣・明智光秀の率いる軍勢に攻められ自害に追い込まれた事件。なお、時の天皇は正親町天皇

様々な説[編集]

明智光秀が謀反を起こした理由は現在でも諸説があり、定説は見ていない。

野心説[編集]

光秀が天下を取るために信長に謀反を起こしたとする説。

怨恨・不満説[編集]

信長の横柄な態度、あるいはパワハラに耐えられず謀反を起こしたとする説

  • 明智光秀の母が信長の約束違反によりにされたとする説

この説は『総見記』『柏崎物語』に記録されている。どのようなものかというと『総見記』に詳しい。

「天正7年(1579年)5月、秀吉の西丹波平定に遅れを取りたくない光秀は東丹波に派兵したが、秀吉はそれを知ると氷上山城波多野宗長波多野家貞らを攻め、陥落させて20日間で播磨に撤退した。そこで光秀は波多野家の惣領である波多野秀治並びにその兄弟たちが立て籠もる八上城を包囲。秀吉に負けたくない光秀は一刻も早く城を手に入れるため、愛宕山大善院を仲介にして秀治に和議と開城を申し入れた。和議の内容は波多野兄弟が信長に服従するなら、丹波の所領を安堵する。それを保証するために光秀は起請文を書くというものだったが、秀治はこれを疑って人質を差し出すことを申し入れ、光秀は自分の母親を人質に差し出したので、秀治とその弟・秀尚らは開城して城を出た。秀治らは光秀により安土城に送られるが、秀治は途中で病死し、秀尚らは安土城で信長から自害を命じられた。これを知った八上城内の波多野家臣団は約束違反だと怒り、光秀の母親を磔にして処刑した」

『柏崎物語』も多少異なるがほぼ同じである。しかし、この2つの史料はいずれも後代の史料で信頼性に疑問が持たれるものである。これらより信頼性の高い『信長公記』『兼見卿記』あるいはその他の公家衆の日記にすらこんな記録は全く存在しない。いやそればかりか、明智光秀視点で描かれた信頼性の低い軍記である『明智軍記』すらこの話が全く存在しないのである。

『信長公記』巻12では以下のようにある。

「三里四方に堀をほり、塀、柵を丈夫に幾重も申し付け責められ候」
「籠城の者、既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、のちのちには牛馬を食し、了見尽き果て無体に罷り出て候を悉く切り捨て波多野兄弟三人の者、調略を以て召し捕る」

つまり、八上城は完全に包囲され、籠城兵は兵糧攻めで苦しみ、手立ても尽きたので、調略をもって波多野兄弟を捕らえた、とある。『総見記』や『柏崎物語』と全く違うのである。ちなみに、現在の八上城跡には城の山頂から少し裏手に降ったところに光秀の母親を殺したとされる「磔松」が存在する。地元では多くの人が光秀の母をここで磔にしたと信じており、光秀が悪いのではなく約束を破った信長が悪者として信じ、それが本能寺の変の怨恨の原因になったと語り継がれているという。しかし、信頼性の高い史料、あるいは信頼性が低くても光秀視点から描かれている史料ですらこの話が全く見えないことから、これは作り話としか言いようがない。

黒幕説[編集]

誰かが光秀に謀反を起こさせた説。中国大返しの早すぎるスピードでも知られる豊臣秀吉のほか、徳川家康足利義昭朝廷等が上げられる。

共謀説[編集]

この説は実を言うと『甲陽軍鑑』品58に記録されているのである。

「勝頼公も明智十兵衛当二月より逆心仕るべきと申こす処に、長坂長閑分別に謀をもって調儀にて申越すと云て、明智とひとつにならざる故、武田勝頼公滅亡なり、3月11日より6月2日までは4月、5月小の月なる故80日目に信長父子御切腹なり」

『甲陽軍鑑』では以上のように、天正10年(1582年)2月、つまり武田征伐のまさに前後に光秀が勝頼に対し、謀反することを告げたのだという。しかし、武田征伐により武田軍はあっけなく総崩れとなり、光秀は計画を実行する時間も無く、断念せざるを得なくなった。本能寺の変後に武田家旧臣の穴山信君が殺されているが、これは事前に謀反の計画を知っていた可能性がある穴山を口封じに光秀が殺したのだという。しかし、『甲陽軍鑑』自体信頼性が疑われるものであり、事実かどうかは疑わしい。

影響[編集]

織田信長の嫡男織田信忠も自害したことから、織田家は急速に衰退に向かうこととなる。織田家の後を継いだのは信忠の子でまだ幼少だった三法師、後の織田秀信で、織田家の実権は事実上羽柴秀吉が握ることとなった。織田信長の三男信孝は賤ケ岳で秀吉と敵対して敗死、後に関白となって日本で二番目に偉くなった秀吉により次男信雄は失脚させられ、秀信も結局秀吉の一家来とさせられてしまった。織田秀信は関ケ原の戦いで西軍につき、失脚。

ここで記した様に、羽柴秀吉は、本能寺の変後すぐに明智光秀を討ち、織田家の事実上の筆頭家老となった。織田家の当主を自身の傀儡とし、さらには困窮していた公家を利用して関白の地位を手に入れ、全国に権勢を振るうこととなった。

また、織田家が攻略したばかりの信濃・甲斐・上野は、天正壬午の乱と呼ばれる大混乱に陥り、どさくさに紛れて徳川家康が領地を北に拡大し、一気に全国有数の大大名となった。

その他[編集]

エグスプロージョンという2人組ダンスユニットが、「踊る授業シリーズ」動画をいくつかYoutubeにアップロードした中で、第1号が「本能寺の変」である。