北条氏邦

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが北条氏邦の項目をおカタく解説しています。

北条 氏邦(ほうじょう うじくに、? - 慶長2年8月8日1597年9月19日))は、戦国時代武将北条氏康の息子。藤田康邦養子になったことから、藤田 氏邦(ふじた うじくに)とも言われる。

生涯[編集]

幼名は乙千代丸(おとちよまる)[1]。仮名は新太郎(しんたろう)[1]。受領名は安房[1]

北条氏康の息子で、父の命令で武蔵国衆で花園城主の藤田康邦の婿養子になって、藤田家の家督を継承した[1]永禄4年(1561年12月に家臣の秩父衆に対して本領安堵の判物を出しているのが史料上の初見となる[1]元服の時期は永禄5年(1562年10月から永禄7年(1564年6月の間と見られ、初めは藤田姓を称していた。天正10年(1582年)までは藤田姓が確認できるが、天正15年(1587年11月には北条姓を称しており、5年間の間に復姓した可能性がある[1][2]

氏邦は後北条家の一族の重鎮として、兄の氏照と共に北条軍を率いて武田信玄上杉謙信関東の強豪との戦いで戦功を挙げている。後北条家の武の重鎮としてその勢力拡大や繁栄を支えた。永禄11年(1568年)10月から永禄12年(1569年2月の間に鉢形城を再興させて、居城として移動している。元亀3年(1572年)11月、武田信玄との同盟、その際の国分により、武田氏の国衆である長井氏から御岳城を引き渡されると、自領として併合している。氏邦は武蔵から上野国の国衆を統率し、天正6年(1578年)に上杉謙信が急死して御館の乱が開始されると、氏照と共にその内乱に介入して上杉景虎を助けて上野国に進出し、沼田城を管轄下に置いて家臣の猪俣邦憲藤田信吉らを城代として置いている[2]。後に武田勝頼が上野国に進出してくると、勝頼やその家臣の真田昌幸と戦った。

天正10年(1582年)に武田征伐で武田勝頼が自刃。さらに本能寺の変織田信長も死去して、それにより信長に上野国主に任命されていた滝川一益も没落すると、氏邦は当主の氏直と共に上野に再び進出し、箕輪城に入城して箕輪領を管轄下に置いた[2]

氏邦は兄の氏政、甥の氏直から重用されており、天正14年(1586年)からは豊臣秀吉に備えるためか、氏邦の権限がさらに拡大されている。天正15年(1587年)になってもそれは続き、箕輪城に氏邦の家臣の猪俣、大戸城斎藤定盛を置くことが認められている[2]

天正17年(1589年7月、後北条家の臣従を求める豊臣秀吉は、真田昌幸と北条氏直の所領問題を裁定し、沼田城を氏直に引き渡す決定を下した。氏直は沼田城の管轄を氏邦に任せ、氏邦は沼田城代に猪俣を任命した。ところが猪俣が独断で真田昌幸の家臣・鈴木重則名胡桃城を奪取する事件を引き起こしてしまい(名胡桃城事件)、これが秀吉の小田原征伐の直接の原因になってしまった[2]

天正18年(1590年)、小田原征伐直前の小田原城の軍議では、兄の氏照と共に主戦派の一人として強硬論を主張。氏邦は籠城策では無く野戦を主張し、黄瀬川箱根の天嶮を利用した迎撃を主張したが、氏政も氏直も拒否して関東各地の城に籠城することが決定し、氏邦も居城の鉢形城に籠城することになった。氏邦の鉢形城は6月に前田利家上杉景勝、真田昌幸らの豊臣軍によって攻められ、氏邦は少数の兵力ながらも半月にわたって抗戦したが、遂に力尽きて6月14日に開城する。この際に剃髪して降伏し、城下の正龍寺に隠遁した。氏邦の身柄は秀吉の命令で前田利家に預けられた[2]

小田原城が開城して後北条家が滅亡した後、氏邦は利家に従って加賀国に移る。この際に利家から前田氏の家臣として迎えられ、1000石の知行を与えられた[2][3]

文禄4年(1595年)には能登国二宮に在所していたことが判明している(『京大坂之御道者之賦日記』)。

慶長2年(1597年)8月8日に死去した。法名は昌竜寺殿天室宗育大居士[3]

氏邦の家督は4男の庄三郎が継承し、その家系は江戸時代前期まで存続した。

氏邦についての異説[編集]

氏邦は通説では北条氏康の4男で、弟に北条氏規がいるのが一般的であった。しかし浅倉直美はこれを見直し、その根拠として天正13年(1585年)に奉納されている法楽寺薬師堂十二神将像胎内銘のうち、申像に「氏邦本命」とあることから、氏邦の生年を申年の天文17年(1548年)とする新説を提言している。これが事実なら、天文14年(1545年)生まれの氏規より3歳年下の弟という事になり、氏康の5男であったとしている[4]

また、生母に関しても、氏邦は氏康の正室である今川氏親の娘・瑞渓院殿という説がこれまでは通説であったが、研究などから氏康の時代に氏邦の序列が、氏規や氏忠より下位に置かれていることなどから、氏邦の生母は瑞渓院殿ではなく、庶子の可能性が提言されている。浅倉直美は後北条家筆頭宿老の三山綱定の姉妹の可能性を指摘している[4][1]。また、瑞渓院殿と時期不明であるが養子縁組して、それにより嫡出の子としての体裁が取られた可能性も指摘されている。小田原征伐前に氏政や氏直が氏邦に対して強大な権力の移譲をしており、氏邦の序列が氏規より上位に置かれるようになっているため、その可能性が言われているのである。

ただし、これらはいずれも裏付けがあるとは言い切れない。

家族[編集]

父母[編集]

兄弟[編集]

妻子[編集]

偏諱を与えた人物[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P75
  2. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P76
  3. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P77
  4. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P74

関連項目[編集]