早川殿

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早川殿(はやかわどの、? - 慶長18年2月15日1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。法名は蔵春院(ぞうしゅんいん)。早河殿と書かれているものも存在する[1]。なお、早川とは武田信玄駿河侵攻で夫の今川氏真と共に実家の後北条氏亡命した際に居住した地名のことであり、彼女の実名は不詳である。

生涯[編集]

後北条家の第3代当主・北条氏康の娘で、母は今川氏親の娘・瑞渓院殿[1]。生年に関しては北条氏政と同年の天文7年(1538年)と見られている(『寛政重修諸家譜』)。ただし氏真との初めての長男となる範以元亀元年(1570年)とかなり年を経て生まれている点、初産の長女が永禄10年(1567年)である点、その後も多くの子宝に恵まれていることから、この年齢は疑わしく、実際は天文16年(1547年)の生まれではないかと見られている[1]。なおこの場合、氏康の娘の中では4女に当たることになる[1]

天文23年(1554年)に父の氏康、母方の叔父に当たる今川義元、そして甲斐武田晴信との間で甲駿相三国同盟が成立した際、早川殿は同年7月に義元の嫡子・氏真に嫁ぐことになる(『勝山記』)。この際の輿入れ行列は「お供の者たちは綺羅を飾り、色々の道具持参で前代未聞の見物だったそうだ」と記録にはあるほどの豪華絢爛ぶりだったという。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元が織田信長に敗れて戦死すると、名実共に夫の氏真が今川氏家督を継承するが、氏真には桶狭間から混乱する今川家を建て直すことはできず、没落の一途をたどることになる。この今川家の没落を見た武田信玄は、氏真との同盟を破棄して信長、並びに徳川家康と同盟を結び、永禄11年(1568年)12月には駿河侵攻を開始する[2]。この際、氏真は武田軍を迎撃するも既に家臣の大半が信玄の調略を受けていたためすぐに総崩れとなり、氏真は重臣の朝比奈泰朝が守る遠江掛川城に敗走する。この際、早川殿は輿にも乗れず、裸足で逃げ出したと伝わっている。なお、愛娘の早川殿が裸足で逃げる恥辱を信玄に味わされたことに対して父の氏康は激怒し、信玄との同盟を破棄してそれまで宿敵だった越後上杉輝虎越相同盟を打診している。氏康はよほど激怒していたようで、輝虎に宛てた書状で「愚老息女(早川殿)、不求得乗物体、此恥辱難雪候」と述べているほどである。

永禄12年(1569年)5月、父の氏康に氏真と共に正式に引き取られ、8月に駿河駿東郡から相模小田原の早川に移り、これ以降、早川殿と言われるようになった[2]。なお、早川は後北条家の長老である北条幻庵の所領であるため、早川殿らは幻庵の庇護を受けたと見られている[2]。元亀元年(1570年)に嫡子の範以が生まれるなど、これ以降は氏真との間に品川高久西尾安信など多くの子宝に恵まれていることから、夫婦仲も良かったものと見られている。

しかし元亀2年(1571年)10月に父・氏康が死去し、さらに同年末には兄・氏政が仇敵である武田信玄との間に甲相同盟を復活させた。このこともあり、天正元年(1573年)に早川殿夫妻は相模を離れ、信玄の仇敵である徳川家康を頼って遠江に亡命した[2]

その後、京都で過ごすなどしたが、家康が覇権を掌握して江戸幕府を開くと、その庇護を受けたという[2]

慶長12年(1607年)に長男の範以が早世し、自身も夫の氏真に先立って慶長18年(1613年)2月15日に死去[2]。法名は蔵春院殿天安理性禅定尼[2]

登場する作品[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P95
  2. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P96

参考文献[編集]