遠山政景

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遠山 政景(とおやま まさかげ、? - 天正8年閏3月23日1580年5月6日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。遠山綱景の子。官途は右衛門大夫。受領名は甲斐[1]

略歴[編集]

後北条家の重臣・遠山綱景の子である。Wikipediaでは「三男」とされているが、何番目の男子であるかは実際のところは不明であり、Wikipediaが何を根拠に「三男」としているのかは不明である。

一説に「末子」とされるが、弟に遠山景宗がいることが確認できるため、少なくとも末子ではない。兄に遠山弥九郎がおり、他に遠山藤九郎遠山隼人佐らも兄と思われるため、少なくとも4男以下の可能性がある[1]

男子でも下の生まれであったためか、当初は相模国大山寺八大坊の僧侶となっていた。しかし永禄7年(1564年)1月8日の下総国国府台合戦で父の綱景、兄の隼人佐が共に戦死したため、10月に北条氏政の命令で還俗し、家督を継承した[1]。政景の諱は氏政からの偏諱と考えられる。

古河公方足利義氏との交渉、江戸地域の支配、葛西地域の支配などを担当しているが、足利義氏との交渉権は北条氏照に、江戸地域支配は北条氏秀にそれぞれ交代しており、父や兄の死で遠山氏の権限が縮小されていると見られる。以後は葛西地域支配を任されて、房総方面の軍事権のみを担当する権限のみを与えられている[1]

天正8年(1580年)閏3月23日に死去[1]。家督は息子の遠山直景が跡を継いだ。Wikipediaでは「3月23日」となっているが、これは誤りである。法名は無外宗関大居士。

脚注[編集]

  1. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P205

参考文献[編集]