北条源蔵
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北条 源蔵(ほうじょう げんぞう、天正12年(1584年) - 寛永12年5月19日(1635年7月3日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての人物。後北条氏の一族。
略歴[編集]
父は後北条家の第4代当主・北条氏政で6男[1]。兄弟姉妹に北条新九郎、北条氏直、太田源五郎、北条氏房、北条直重、北条直定、北条勝千代、芳桂院殿、竜寿院、庭田重貞室、鈴木繁光室など。
幼名は鶴千代という[1]。仮名は源蔵という[1]。叔父の北条氏照の養子となった[1]。氏照の仮名は源三であるため、源蔵表記はあるいは誤記の可能性もあり、源三が正しい表記の可能性もある[1]。
氏照には男子が無かったため、最初は源蔵の兄である直重が養子になっていたが、直重は天正13年(1585年)に千葉氏の養子となったため、代わって源蔵が養子となった[2]。天正18年(1590年)の小田原征伐の時点ではまだ7歳の幼児のため、元服したのはその後のことと推測され、通称は采女を称している[2]。なお、氏照と実父の氏政は小田原征伐後に自害している。
具体的な経歴はほとんどわかっていない[2]。法名は後相州鎌倉明月院住職以心伝公[2]。寛永12年(1635年)5月19日に死去したという[2]。享年52。