鳳翔院殿
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鳳翔院殿(ほうしょういんでん、? - 天正18年6月12日(1590年7月13日))は、安土桃山時代の女性。北条氏政の継室。名は不詳で鳳翔院殿とは法名である。
生涯[編集]
鳳翔院殿に関しては具体的なことを伝える史料が無いため[1]、出自などは不明である。氏政は永禄11年(1568年)12月に武田信玄が駿河侵攻を行なって甲相駿三国同盟が崩壊し、永禄12年(1569年)に当時の正室で信玄の娘である黄梅院を離別して武田家に送り返していたため、妻が無かった。そのため、後妻として迎えられたと考えられる。
ただし鳳翔院殿がいつ後妻に迎えられたのかは不明である。天正10年(1582年)の時点で「御せんさま」と『相州道者日記』にあるため、少なくともこの年までには後妻になっていたようである。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、小田原城は豊臣軍に包囲される。その包囲中である6月12日(あるいは6月22日)に死去している[2]。この忌日は氏政の生母である瑞渓院殿と同日であるため、自殺した可能性が指摘されている[3]。『駿河大宅高橋家過去帳一切』においては自害と明記されている。
氏政との間には7男の勝千代が小田原籠城中に生まれたとされているが、鳳翔院殿を勝千代の生母とする史料は存在しない[2]。
法名は鳳翔院殿寄雲宗崇大禅定尼[2]。