北条氏康

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北条 氏康(ほうじょう うじやす、永正12年(1515年) - 元亀2年10月3日1571年10月21日))は、戦国時代武将戦国大名後北条氏の第3代当主。山内上杉氏など関東の諸勢力を併呑し、武田信玄上杉謙信と争って勢力を拡大し、関東に覇を唱えた。また、政治家としての手腕も高く評価される。

生涯[編集]

若い頃[編集]

父は第2代当主の北条氏綱で長男。母は正室養珠院殿。幼名は伊豆千代丸(いずちよまる)。当初は北条姓ではなく、「伊勢」姓であった。大永3年(1523年)に父の氏綱は北条に改姓するが、氏康はこの時点でも伊勢姓である。恐らく、改姓したのは氏綱のみと見られ、氏康は元服した際に改姓したのではないかと見られている。氏康の元服は享禄2年(1529年)末頃と見られ、歴代当主の仮名である新九郎を称した。

天文10年(1541年)7月、父の氏綱が病死したため、家督を相続して後北条家の第3代当主となる。

北条包囲網[編集]

氏綱の時代に後北条家は南関東から駿河国東部などにまで勢力を拡大し、大勢力になっていたが、そのために周囲を敵対勢力に包囲されている状態にあった。その敵対勢力は氏綱の死を好機ととらえて動き出した。これに対して氏康は上杉朝定里見義堯らを攻めるなどしたが、天文14年(1545年)8月に駿河東部を奪還するために今川義元が侵攻を開始。さらに9月には甲斐国武田晴信も侵攻してくる。これに呼応するように、上野国では上杉憲政が、武蔵国では上杉朝定が、下総国では足利晴氏らが河越城を攻め、氏康はまさに危機的状況に陥った。

これに対し、氏康は武田晴信の調停のもとに今川義元と和睦し、和睦の代償として駿河国の所領を全て返還した。次に、河越城を攻める連合軍の分裂を図り、晴氏に対して和睦を申し出るも拒否された。そして天文15年(1546年)4月、氏康は河越城を後詰するために出陣し、4月20日に3者連合軍を攻撃して3000人余を討ち取る大勝利を収めた(河越夜戦)。この奇襲により、上杉朝定は戦死して扇谷上杉家は滅亡し、上杉憲政と足利晴氏はそれぞれの居城に逃走した。この戦勝により、後北条家の南関東における覇権が完全に確立するとともに、北関東に対してもその影響力が大いに強まることになった。

勢力拡大[編集]

しかし、河越夜戦で滅亡した扇谷上杉家の旧臣・太田資正は上杉憲政の支援を得てなおも抵抗を続け、合戦後の9月には武蔵松山城を氏康から奪い取った。さらに天文16年(1547年)には岩槻城も攻略した。これに対して氏康は天文16年(1547年)12月に松山城を攻略し、さらに天文17年(1548年)1月に資正を服従させることで逆襲している。さらに資正を支援していた上杉憲政に対しても攻勢を強め、上野国国峰城小幡憲重武蔵花園城藤田康邦らを服従させた。天文19年(1550年)には遂に憲政の居城・平井城にまで迫った。この氏康の攻勢の前に、山内上杉家の家臣らは動揺して那波宗俊らが離反して氏康に服従するなどした。これに対し、憲政は最早抵抗力が無く、平井城を放棄して天文21年(1552年)5月初旬に越後国長尾景虎を頼って落ち延びた。

越後に落ち延びた憲政は景虎に関東出兵を要請し、景虎はこれを受諾して上野に出兵した。氏康と景虎は互いに睨みあったが大きな戦いは無く、12月頃まで在陣を続けて引き揚げた。こうして氏康は、山内上杉家を没落させて上野国にまで勢力を拡大したのであった。なお、同時に氏康は上野の領国化も推し進めた。

河越合戦で対立した結果、自身の妹婿であるにも関わらず古河公方・足利晴氏とは完全な敵対関係となっていた。このため、氏康は晴氏に対して圧力をかけ、天文21年(1552年)に晴氏の嫡子足利藤氏廃嫡させ、自らの外甥である足利義氏を新たな古河公方に擁立した。こうして関東に勢力を拡大するための大義名分においても氏康は他の大名より優位に立つことになった。

天文23年(1554年)、駿河国の今川義元、甲斐国の武田信玄との間にそれぞれ婚姻を通じることで三国同盟を成立した(甲相駿三国同盟)。これにより、氏康は背後を気にすることなく関東経略に当たることが可能になった。

長尾景虎(上杉輝虎・謙信)との戦い[編集]

永禄2年(1559年)12月23日、氏康は家督を次男で嫡子の氏政に譲って名義上は隠居の身分となった。ただし、氏康はなおも小田原城の本丸に居住して「御本城様」と称し、政治の実権を握って氏政の後見的な役割を果たしている。この氏康の隠居に関しては、同時期に関東地方において飢饉疫病が流行したために深刻な領国危機が起こり、社会危機から世直しを図るためにまずは心機一転、自らが家督から離れて新当主のもとで再建を図る目的があったと見られている。氏康は永禄3年(1560年)2月、北条領における領民に対して徳政令を氏政名義で出し、領民の債務の一部を破棄することを約束した。

ところが、この年に5月に桶狭間の戦いが起こって盟友・今川義元が織田信長に敗れて敗死。これにより三国同盟の一角が崩れることになる。これを見た越後の長尾景虎は、9月に上杉憲政を擁して関東に南下を開始した。この長尾軍の侵攻により、氏康に従属していたはずの上野・武蔵の国衆の多くが離反したり、抵抗して滅亡したりした。氏康の勢力は一気に武蔵南部まで減退し、永禄4年(1561年)3月には遂に居城の小田原城まで攻められる事態となる(小田原城の戦い)。これは今川氏真の援軍などもあって北条軍は激しく抵抗したため、景虎は小田原城を落とせず撤退に追い込まれている。景虎が越後に撤退すると、氏康は離反した国衆の再服属を進め、さらに武田信玄に越後出兵を要請。永禄4年(1561年)9月に第4回川中島の戦いが発生して武田・上杉両軍に甚大な被害が出ると、それにつけ込む形で氏康は上杉領への侵攻を進めた。

永禄9年(1566年)に上杉輝虎が下総国小金城臼井城の攻略に失敗したのを機に、関東の国衆は氏康に対して服従することを雪崩をうって表明。これに対して輝虎は信玄と西上野で戦っていたこともあって対応できず、永禄10年(1567年)の時点で輝虎の関東における勢力圏は上野国の一部にまで縮小するほど衰退していた。氏康は輝虎という戦上手に対し、信玄と連携して直接対決を避けながらじわじわと反撃することで勝利したのである。

武田信玄との戦い[編集]

今川家は義元が織田信長に討たれた後、三河国徳川家康が独立するなどして衰退の色が濃くなっていた。これを見た武田信玄は駿河国に勢力を拡大することを望み、氏康に駿河東部を割譲することで今川氏真を攻撃することを誘ったが、氏康は拒否した。そのため信玄は信長や家康と連携し、永禄11年(1568年)12月に遂に三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始した。この駿河侵攻により駿府城は落城し、氏真は掛川城に逃れた。この落城の際、氏真の正室で氏康の娘である早川殿が裸足で落ち延びる有様だったといわれ、それを知った氏康は激怒して信玄との同盟を破棄し、氏真に対して援軍を派遣するとともに、信玄にとって、そして自らにとっても仇敵にあたる上杉輝虎との同盟を画策した。永禄12年(1569年)6月、氏康と輝虎との間で同盟が成立し、後北条家と上杉家は共に甲斐武田家に当たることになった(越相同盟)。

一方、信玄は家康と連携していたにも関わらず、遠江国に侵攻して家康の所領も奪い取ろうと画策したことから家康とも敵対。これを見た氏康は家康との同盟も推し進め、掛川城にいる今川氏真の身柄を預かることを条件に、家康とも同盟して信玄に当たることになった。これに対して信玄は一旦、甲斐に撤退したものの同年冬には北条領に侵攻を開始し、10月には小田原城を攻めるに至る。信玄は小田原城を落とすことはできなかったが、三増峠の戦いで信玄に痛撃を与えられて氏康はやむなく駿河に残存させていた守備兵を相模国に回すことになり、その間隙を突かれて年末には信玄に駿河に侵攻されて駿府を再占領されてしまった。こうして、信玄との戦いは当初こそ氏康が有利だったが、次第に信玄に押される展開になってしまった。

最期[編集]

氏康は50代半ばを迎えたころから病に倒れ、次第に指揮を執ることが困難になっていたという。氏政の後見的な立場も永禄年間末期にはあまり見られなくなっている。

元亀2年(1571年)10月3日、氏康は小田原城で病死した。享年57。死因は中風、あるいはだったといわれる。法名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。

氏康は後継者の氏政に、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と再同盟(甲相同盟)すること」を遺言し、氏政はそれに従って氏康の死後、信玄との同盟を復活させた。

系譜[編集]

主な家臣[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]

関連作品[編集]

小説
テレビドラマ

外部リンク[編集]