忍城
忍城(おしじょう)とは、埼玉県行田市本丸17-23に存在した城である。利根川と荒川と沼地に囲まれた難攻不落の城であった。別名は浮城。亀城。水の城。のぼうの城。
概要[編集]
行田市駅の南東およそ800メートル、国道125号線沿いに残る平城跡で、埼玉県の旧跡に指定されている。
この城は室町時代後期から戦国時代に移りつつある延徳3年(1491年)に、当時この地を支配していた土豪の児玉重行を滅ぼした成田親泰が築城したといわれている。ただし、築城時期については文明年間(1469年 - 1487年)とする説もあり、はっきりしていない。忍城は成田氏の居城としてその歴代当主が支配した。当時、忍城の周囲は北を流れる忍川流域の低湿地に囲まれ、沼を自然の堀として本丸、2の丸といった各郭は橋で結ばれていたという。このため、忍城は「浮城」とも称され、攻めるに難く守るに易い堅城だったと言われている。
永禄6年(1563年)と天正2年(1574年)、当時の成田氏の当主・成田長泰は相模の北条氏康・氏政父子に属していたため、越後の上杉謙信の攻撃を受けるが、2度にわたって撃退し、謙信は城下町を焼き払った以外に戦果を挙げることはできなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐を行なった際、当時の城主である成田氏長は北条氏政に味方して小田原城に籠城し、氏長の妻と娘の甲斐姫が3000人足らずの士卒で忍城を守備していた。秀吉は側近の石田三成に2万3000人の軍勢を預けて攻めさせたが、堅城と甲斐姫の奮戦により城は落ちる気配を見せなかった。三成は28キロ余りの堤防を築き、荒川・利根川の水を引き入れてかつての秀吉の備中高松城攻めにならった水攻めを行なうが、浮城の名の通り水攻めでも城兵は耐え抜いた。なお、浮城の名の由来はこの時の水攻めによるものとも言われている。こうして、1ヶ月にわたる攻防戦に忍城は耐え抜き、北条氏政の小田原城が秀吉に降伏した後、同じように小田原で降伏した氏長の命令が忍城に伝わるに及んで、開城となった。このように忍城は天下の大軍を相手にしても最後まで持ちこたえた城として天下に広く高まり、戦後に関東の太守に任命された徳川家康もこの地を重要視し、忍城主には自らの4男である松平忠吉を10万石で入封させた。
忠吉の後、大河内松平氏、阿部氏など徳川氏譜代の重臣や親藩など5家17名が城主に任命され、江戸城の北側の守りの城として重要視されながら明治維新を迎えた。
現在の城跡は行田市役所、東照宮境内、中央小学校の構内などになっている。本丸跡に御三階櫓と呼ばれる天守閣が復元されている。また、遺構の鐘楼は「忍城の鐘」として知られており、江戸時代中期の享保2年(1717年)に当時の城主である阿部正喬が鋳造されたものといわれており、外堀の沼地が水城公園として残されている。
アクセス[編集]
- 秩父線行田市駅から徒歩で15分(JR高崎線吹上駅/バス/15分又はJR高崎線行田駅/市内循環バス/29分)。
- JR高崎線吹上駅からバスで15分。
- JR高崎線行田駅から市内循環バスで19分(西循環コース(右回り))。