江戸時代
江戸時代(えどじだい)とは、徳川幕府が政権を担っていた時代である。ウィキペディアに「江戸時代」の記事があるが、間違いも多い。
始期[編集]
江戸時代の始期にはいくつかの説がある。江戸時代からは近世、安土桃山時代までは中世なので、近世と中世の境目がどこか、という問題と同義である。
慶長8年説[編集]
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任命されてから、第15代将軍の徳川慶喜により明治天皇に対して大政奉還(1867年)が行なわれた期間。幕府の存続期間を江戸時代とする説である。現代日本歴史学では多数派と言える[1]。1601年(慶長6年)、全国支配のため五街道の着手し、伝馬制度を創設したことの意味を、慶長8年説では十分に説明できない。
慶長5年説[編集]
関ヶ原の戦いで勝利した慶長5年が江戸時代の始期とする説である。徳川家康が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利して事実上覇権を掌握し、実質的に権力が移行した時点とみる。1607年(慶長12年)2月からは家康が駿府城に移り「江戸・駿府両政権時代」と言われる。後陽成天皇の宣旨、内大臣源朝臣(徳川家康、正二位)を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命したのは単に形式に過ぎないと判断する説である[2]。
元和元年説[編集]
豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)説もあるが、現代の歴史学では江戸時代の始期としては否定が多数である。1605年(慶長10)3月には徳川家康が伏見城で朝鮮国使を引見し、国交回復している。元和元年説ではその時点で外交権が江戸幕府にある理由を十分説明できない。また、関ヶ原後は豊臣が一大名に過ぎなかったことを説明できない。オランダが平戸に商館を作ることを認めたのは、江戸幕府であって豊臣ではなかった(平戸オランダ商館の設置は1609年、この時点で外交権を掌握していたことを示す)理由を「元和元年説」ではうまく説明できない。文化庁の文化財時代区分は元和元年(1615年)説によるとの意見もあるが、文化庁重要文化指定目録の基準に基づく「前近代日本史時代区分表」は1603年~1680年を江戸前期としているため裏付けがない[3]。
政治[編集]
将軍が最高地位であり、初代家康、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、11代家斉など、親政を行った将軍もいるが、実際の政治は老中(臨時に大老)が行っていた時期が長い。家光の時代は親政体制であったが、「家光の虫気発病」から1年近く病気療養しており、その間の政務は停滞した。そこで、それまで権限の弱かった老中の権限を拡大し、老中を交えた合議体制が確立した。また大老の中には酒井忠清や井伊直弼等著名な人物も居る。
のち将軍が幼少であったり病弱や暗愚であった場合があり、しだいに老中・若年寄・大目付・勘定奉行・町奉行ら幕府の旗本幹部の合議体制による政務が主流となった。
身分[編集]
士(武士)・農(百姓)・工(職人)、商(町人)、その下の賤民の身分などに分けられていた。農民による一揆が多発した時期がある。
文化[編集]
鎖国による国際的に見た科学技術の停滞はあったものの、歌舞伎、浮世絵などの日本独自の文化が生まれた時代でもある。また参勤交代により江戸の中央文化がわずか2年後には全国津々浦々に伝播したため、幕末には地方の片隅の田舎から日本を動かすような人物が出現することが多かった。例として、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、島根県津和野出身の西周など。
経済[編集]
地方政治は全国約300の大名にゆだねられたが、幕府の商業保護もあり全国的に経済が発展した。経済の中心地は、「天下の台所」大坂であった。
その他[編集]
明治以降、日本の首都が京都でなく東京になったのは、江戸幕府が江戸(現在の東京)に本拠地を置いたこと、及び無血開城によって江戸城が破壊を免れたことによる影響が大きい。実際、大久保利通が最初に提唱した候補地は大阪だったのだが、大阪城が焼失していたため実現しなかった、という経緯がある。
脚注[編集]
- ↑ 『全国統一と江戸幕府の成立』好学社
- ↑ 本郷和人(2018)『壬申の乱と関ケ原の戦い』祥伝社
- ↑ 前近代日本史時代区分表東京大学