江戸時代
江戸時代(えどじだい)とは、徳川幕府が政権を担っていた時代である。概ね、17世紀初めから19世紀末までの、260~270年間を指す。ウィキペディアに「江戸時代」の記事があるが、間違いも多い。(←ならば訂正すればよい)
始期[編集]
江戸時代の始期にはいくつかの説がある。江戸時代からは近世、安土桃山時代までは中世なので、近世と中世の境目がどこか、という問題と同義である。
慶長8年説[編集]
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任命されてから、第15代将軍の徳川慶喜により明治天皇に対して大政奉還(1867年)が行なわれた期間。幕府の存続期間を江戸時代とする説である。現代日本歴史学では多数派と言える[1]。もっとも、1601年(慶長6年)の全国支配のための五街道の建設着手や、伝馬制度の創設は、慶長8年説ではその意味を十分に説明できない。
慶長5年説[編集]
関ヶ原の戦いで勝利した慶長5年が江戸時代の始期とする説である。徳川家康が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利して事実上覇権を掌握して、戦後の領地仕置がされ、実質的に権力が移行した時点とみる。1607年(慶長12年)2月からは家康が駿府城に移り「江戸・駿府両政権時代」と言われる。後陽成天皇の宣旨、内大臣源朝臣(徳川家康、正二位)を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命したのは単に形式に過ぎないと判断する説である[2]。
元和元年説[編集]
豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)説もあるが、現代の歴史学では江戸時代の始期としては否定が多数である。1605年(慶長10)3月には徳川家康が伏見城で朝鮮国使を引見し、国交回復している。元和元年説ではその時点で外交権が江戸幕府にある理由を十分説明できない。また、関ヶ原後は豊臣が一大名に過ぎなかったことを説明できない。オランダが平戸に商館を作ることを認めたのは、江戸幕府であって豊臣ではなかった(平戸オランダ商館の設置は1609年、この時点で外交権を掌握していたことを示す)理由を「元和元年説」ではうまく説明できない。文化庁の文化財時代区分は元和元年(1615年)説によるとの意見もあるが、文化庁重要文化指定目録の基準に基づく「前近代日本史時代区分表」は1603年~1680年を江戸前期としているため裏付けがない[3]。
終期[編集]
大政奉還が行われた1867年説と、江戸城開城の1868年説がある。他に、廃藩置県の年とする見方も可能。
政治[編集]
将軍が最高地位であり、徳川家が世襲していた。初代将軍は徳川家康で、以降は全員が家康の子孫。2代秀忠以降、秀忠の子孫が将軍職についていたが、8代吉宗から14代家茂までは家康の十男頼宣の子孫で、15代慶喜は家康の十一男頼房の子孫である。初代家康、2代秀忠、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、11代家斉など、親政を行った将軍もいるが、実際の政治は老中(臨時に大老)が行っていた時期が長い。家光の時代は親政体制であったが、「家光の虫気発病」から1年近く病気療養しており、その間の政務は停滞した。そこで、それまで権限の弱かった老中の権限を拡大し、老中を交えた合議体制が確立した。大老の中には酒井忠清や井伊直弼等著名な人物もおり、松平信綱や水野忠之のように老中筆頭として幕政を担った人物もいる。
のち将軍が幼少であったり病弱や暗愚であった場合があり、しだいに、譜代大名が就く老中・若年寄・奏者番や大目付・勘定奉行・町奉行・遠国奉行ら幕府の旗本幹部の合議体制による政務が主流となった。
大老・老中とも、徳川家・松平家の徳川一族[注 1]ではなく、井伊家や酒井家、あるいは松平家諸流といった譜代大名が就任することが多かった。
大名統制[編集]
関ヶ原の戦いで、本多・酒井・榊原・井伊といった豊臣時代以前からの徳川家家臣は譜代大名、関ヶ原の戦い以降に徳川家に臣従した大名は外様大名とし[注 2]、譜代大名は幕政に参加させ、江戸を護るように配置させた[注 3]が、外様大名には逆の対応をさせた[注 4]。
身分[編集]
士(武士)・農(百姓)・工(職人)、商(町人)た、その下の賤民(穢多・非人)の身分などに分けられていた。ただし最近では教科書から「士農工商」の用語は消えている。身分制度を表す語句に「士農工商」は適切ではないとの判断がある[4]。天明・天保年間など、農民による一揆(百姓一揆ともいう)が多発した時期がある。
文化[編集]
鎖国によって国際的に見た科学技術の停滞はあったものの、歌舞伎、浮世絵、大相撲などの日本独自の文化が生まれた時代でもある。また参勤交代により江戸の中央文化がわずか2年後には全国津々浦々に伝播したため、地方の片隅の田舎から日本を動かすような人物もしくはそれらの人物を育成した人物が出現することが多かった。例として、江戸後期の緒方洪庵、広瀬淡窓、幕末の薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、島根県津和野出身の西周など。
なお鎖国と言っても、清やオランダと交易しており、海外の情勢は日本にかなり伝わっていた。
科学技術[編集]
科学技術の発展は西洋より遅れたが、数学については独自の発展を行っている。当時の日本数学を和算と呼ぶ。当時の数学者は関孝和が有名。数学自体の発展は西洋に劣らぬものであったが、科学技術と結びつくことが無く、結果として西洋数学が明治以降に主流となった。軍事も停滞したが、開国後は武器の輸入を行い、幕府海軍を創設させ、これが明治時代以降の大日本帝国海軍となった。
経済[編集]
地方政治は全国約300の大名にゆだねられたが、幕府の商業保護もあり全国的に経済が発展した。経済の中心地は、「天下の台所」大坂であった。株仲間も作られた。内航海運が発達し、各地に港町、道路が整備され、旅籠、売春宿が作られた。
滅亡[編集]
18世紀から貨幣制度が根を下ろし経済が行き詰まって、徳川幕府も大名も困窮し始めた。1837年の大塩平八郎の乱によって、幕臣すら公然と幕府に反旗を翻す事件が生じた。1853年の黒船来航に際しては、老中首座の阿部正弘は英語修得歴のある森山栄之助や中浜万次郎を登用して対処したが、阿部は家光期の松平信綱のような強力なリーダーシップを発揮できず徳川幕府の弱体化が露見した。阿部致仕後に大老についた井伊直弼は、勅許を得ないまま条約を結び尊王攘夷運動が広がった。これに対し、直弼は言論弾圧や政敵追放で幕府の権威を強化しようと安政の大獄を行ったが、桜田門外の変で暗殺され、徳川幕府の権威が地に落ちた。直弼死後はさらに老中首座が弱体化し、文久の改革は外様大名が朝廷に圧力をかけて勅命を発することによって行われ、公武合体で難局を乗り切ろうとした。
生麦事件がきっかけの薩英戦争、長州藩の攘夷示威行動が契機の下関戦争による対外戦争も勃発した。徳川幕府も長州征伐によって権威を示そうとしたが敗れ、益々権威を落としていった。これにより徳川幕府を武力で倒そうとする雰囲気が増大した。
同時期の世界[編集]
中国は、江戸時代初期は明が支配していたが、満州から起こった清が明にとって代わって支配者となった。
インドはムガル帝国領であったが、イギリスの支配が徐々に強くなり、19世紀半ばについに滅亡、イギリスの支配下となった。
トルコはオスマン朝が支配していたが、徐々にロシアに領土を奪われていった。
フランスはブルボン朝で、太陽王ルイ14世も江戸時代の王である。しかし、フランス革命がおこり、第一共和政→第一帝政(ナポレオン)→第二共和政→第三帝政(ナポレオン3世)と変わっていった。
イギリスは前半がスチュアート朝、後半がドイツ人王家のハノーファー朝。ビクトリア女王が即位したのは江戸時代末期。
北アメリカでは、江戸時代初期から入植が始まり、18世紀後半にアメリカ合衆国が13州で発足。19世紀半ばにはカリフォルニアまで領土を拡張した。
ハワイでは18世紀末にカメハメハ王朝が成立した。
朝鮮は李王朝で、15代光海君は江戸幕府との関係を修復したが、幕末には国王の国父である興宣大院君が実権を握り、鎖国政策を取って排外姿勢を示し、明治新政府の対朝鮮政策に影響した。
その他[編集]
明治以降、日本の事実上の首都が京都でなく東京になったのは、江戸幕府が江戸(現在の東京)に本拠地を置き、人口の増大で一大経済拠点となっていたこと、及び勝海舟らが尽力した無血開城によって江戸城が破壊を免れたことによる影響が大きいとされる。
実際、大久保利通が最初に提唱した候補地は大阪だったのだが、大阪城が焼失していたため実現しなかった、という経緯がある。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ 『全国統一と江戸幕府の成立』好学社
- ↑ 本郷和人(2018)『壬申の乱と関ケ原の戦い』祥伝社
- ↑ 前近代日本史時代区分表東京大学
- ↑ 教科書・図書教材 よくあるご質問Q&A東京書籍