織田信長
織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は戦国時代から安土桃山時代に実在した武将、戦国大名。正二位、贈従一位。
三英傑の1人であり、今川義元を討ち、斎藤義龍亡き後混乱を極めた美濃国を制圧し、足利義昭を奉じて上洛を成し遂げてその後見人となる。後に義昭と対立して義昭を追放し、室町幕府を滅ぼして織田政権を樹立する。武田勝頼を長篠の戦いで破るなど、周辺の強豪勢力を次々となぎ倒しあるいは服従させて天下統一まであと一歩までに迫るも、重臣の明智光秀の謀反にあって京都の本能寺で自害を余儀なくされ、その政権は家臣の豊臣秀吉や同盟相手だった徳川家康に継承されてゆくことになった。
生涯[編集]
織田氏は、越前国発祥と言われている。尾張・越前の守護欺波氏の配下となり、尾張守護代として発展していき、信秀の代には尾張半国を支配する有力豪族となっていた。なお織田氏は、藤原氏の庶流の一つとされているが、信長は足利将軍(源氏)に代わって新政権を取る都合上、平清盛の孫、資盛の子孫を自称した。
天文3年(1534年)、織田信秀の嫡子として出生した。信長は元服すると濃姫(斎藤道三の娘)を娶り、父の死後家督を継いだ。信長は「うつけ者」としての評判が広く知られており、林秀貞らのように離反する家臣も少なくなかった。信長はそれらを各個撃破して尾張の統一を進め、弘治元年(1555年)には清州城、承録2年(1559年)に岩倉城を落として尾張と織田氏を統一した。この過程で長槍と鉄砲を主体とする家臣団の形成が進んでいった。
永禄3年には織田領に侵攻してきた今川義元を桶狭間の戦いで破って討ち取り、徳川家康と同盟を結んだ後に美濃攻めを開始した。中濃攻略戦(堂洞合戦、関・加治田合戦)により、佐藤忠能と加治田衆が内心し中濃を支配。その後、西濃の西美濃三人衆(西美濃四人衆)が味方となり、永禄10年に斎藤龍興を追放して斎藤氏を滅ぼし、稲葉山城に拠点を移して岐阜城と名称を改めた。義弟である斎藤利治を美濃国要地の加治田城主に任命し美濃斎藤氏後継者とした。この頃から信長は天下布武の印判を使用し、天下を意識し始める。
永禄11年には室町幕府の将軍足利義昭が助けを求めてきたため、信長はこれを擁して上洛を目指した。信長は近江の六角氏などを下して一気に京都へ駆け込み、義昭を将軍に据えた。しかし、この直後から義昭は反信長の行動を始め、石山本願寺やその他大名に打倒信長を呼びかけた。そのために信長は元亀10年に義昭から実権を奪い、裏切った妹婿浅井長政と朝倉義景を姉川の戦いで破るなど、反信長勢力との戦いが続いた。同時期には長島一向一揆が伊勢国で発生し、信頼の厚かった織田信興(信長の弟)が自害するなど信長は苦戦を強いられた。元亀2年には浅井氏に内通した比叡山延暦寺を焼き討ちするなどしている。
元亀3年には三方ヶ原の戦いで西上作戦中の武田信玄に敗れており、周辺大名と次々に敵対した。天正元年には足利義昭が挙兵して牧之島城に篭った。しかし武田信玄が病死して信長包囲網に陰りが見え、これを好機と捉えた信長は義昭を攻めて鞆の浦に追放し、室町幕府を滅ぼした。さらに同年のうちに浅井・朝倉両氏を攻め滅ぼし、天正2年には長島一向一揆、天正3年には越前一向一揆を鎮圧、同年には長篠の戦いで武田勝頼を大敗させた。
天正4年、周辺の敵をひとまず殲滅した信長は拠点を移すことにし、近江に安土城を築き始め、同時に美濃と尾張を妻・濃姫の養子として嫡男の織田信忠に割譲した。又、義弟斎藤利治を信忠付き側近に任じ、斎藤利堯も信忠付き重臣とした。信長の領土は大きく拡大したが、ここにきて石山本願寺の顕如(光佐)が挙兵し、それを毛利輝元が公式に支援して敵対の意思を明確にした。そこで信長は羽柴秀吉を毛利征伐に、明智光秀を波多野氏征伐に派遣し、自らは本願寺征伐を担った。松永久秀、別所長治、荒木村重などの謀反によって毛利征伐はやや頓挫したが、天正8年に本願寺と毛利氏を引き離すことに成功、遂に本願寺は降伏した。
天正9年には京都で大規模な馬揃えを行って権力を見せつけ、天正10年には武田勝頼を滅ぼし、次には長宗我部征伐も計画していた(実現されなかった)。同年の6月2日、京都の本能寺に宿した際、信長は秀吉の援軍に向かったはずの明智光秀の襲撃を受けた。信長は明智の大軍に敗れ、自害した。享年49。同時に二条城では信忠と利治も自害と忠死した。(本能寺の変)。 大正6年(1917年)11月17日に正一位が追贈された。
人物[編集]
信長は六角定頼が原型を作った楽市楽座や、検知指出、関所撤廃などの先進的な政策を敷き、中世の権門に大打撃を与えた。一方、信長の統治は派遣先の武将に全権限を与えず、信長個人による先制支配の色彩が強めで、統治の方法は従来の戦国大名と酷似していたといえよう。織田の支配が信長の死後すぐに瓦解したのはそのためである。また、信長の性格について宣教師ルイス・フロイスは「長身で痩せていて、髭は少ない。甲高い声の持ち主であった。武芸を好み、粗野であった」と記している。 一般的なイメージは江戸時代に誕生した「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」のように残忍なイメージで通っておる。
官位と通称など[編集]
- 幼名は吉法師(きっぽうし)。
- 通称は三郎。
- 官位は上総介、弾正忠、参議、権大納言、右大将、内大臣、正二位、贈従一位、太政大臣。
なお、よく創作で使用される第六天魔王(第六天魔王信長)は本来仏敵に対して使用される仏教名で、「天台座主沙門信玄(天台宗座主門下の信玄)」を名乗った武田信玄に対して信長本人が自ら名乗った自称。ウィキペディア日本語版によれば1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡に載っているそうだ。
詳細は「jawp:武田信玄#逸話」を参照
信長の健康状態について[編集]
他者の意見をほとんど聞かず、時折には激怒したり、裏切者や抵抗勢力には容赦の無い大量虐殺や残虐な報復を繰り返していることから、自己愛性パーソナリティ障害の疑いがある[1]。また、落ち着きなく動き回ったり、他者の話をまともに聞けないなどの症状も伝わっており、これらは注意欠陥・多動性障害(ADHD)の症状の疑いがある[2]。失望や不満を感じると突発的な暴力性を発症させたり、他者との共感性に乏しく暴力の犠牲になった者が怯え苦しむことに満足したり、母親の土田御前に疎まれて充分な愛情を受けていないことなど、伝えられる性格や環境などから精神障害の疑いもある[2]。
明智光秀の謀反により本能寺で自害を余儀なくされてその覇道を終焉させた信長であるが、仮に光秀が謀反を起こさずに延命したとしてもそこまで長命を保つことができたかには疑問が持たれている。下戸に近いほど酒に弱く、若い頃から乗馬を好んで駆け回り身体をよく動かすなど自ら摂生して運動もしているのだが、一方で三好氏の料理人が薄味の料理を作った際にそれを好まず塩分の強い食事を好んだこと、もともと出身地の尾張の料理自体が塩分の濃い物が多くて信長もその影響を強く受けていた可能性、せっかちで癇癪持ちで激昂しやすい性格、朝早くに目覚めてしまうという不眠症の疑いなどが残された史料などから読み取れる。これらの症状は信長が高い可能性で高血圧を患っていた可能性を示すものであり、仮に謀反で殺されなくても50歳を超えた時点で脳溢血か心筋梗塞で死去していた可能性がある[3]。信長本人も人生50年を強く意識しており、何らかの体調不良を押し隠していた可能性はある。
人物像[編集]
かつては同時代、世界的に見ても他に匹敵する者はいないほどの天才性を秘めており、日本を近世に導こうとしたいわゆる「信長神話」が主流を成していた。近年ではその評価の見直しが進められ、「信長の事績は大したことはない」「家臣に離反され続け、自らも謀反により殺された統制力の無い人物」など揺り戻しが起こっている。その結果として「信長はそこまでの人物ではない」という評価が成されつつある。後世の虚飾などを廃して信長の真実性を追究することは難しい事であるが、やはり当時の日本に大きな影響を与えて最先端の政治や軍事を成していたのは事実であり、戦国時代を終焉に導くきっかけを作り上げたのは信長であると見なければならない。「信長神話」では何事も信長が創始した、とされていたが、実際には楽市楽座や大規模な城郭造営などは他の戦国大名も行なっていたことであり、信長が創始したわけではない。ただ、信長がその政策に着目してさらに改良を加えて最大の効果が上がるようにしたのは紛れも無い事実で、それを可能にした信長の柔軟さなども着目するに値する。
家臣団統制に関しては能力主義で人材を登用し、中央集権的な封建体制を築こうとした、というのがこれまでの主流になっていた。しかし近年では見直しも行なわれ、池上裕子などが「信長は尾張国・美濃国の人物だけを重用して他は軽視した」などと評したりもしている。しかし権力基盤の強化を図るために地元の人材を重用するのは当たり前で、これは豊臣秀吉や徳川家康にも言えることであり、そこまで信長が酷い地元重視をしていたとは思われない。また家督相続争いの際の柴田勝家などを除けば譜代の家臣で信長に反逆した者は皆無に近く、ほとんどが別所長治、松永久秀、波多野秀治、そして明智光秀といった濃尾制圧以後の外様によって起こされている。ただ、これらを外様を必要以上に重要視したため起こされたと見るべきか、赴任先で大名化した武将らが自主独立的に大名化していったと見るべきかで意見は分かれており、信長の家臣団統制に何らかの問題があったのは間違いない。信長没後にその所領が重臣らによって勝手に分割されたことも信長の家臣団統制の限界を示していると言えるが、これは信長と同時に優秀な嫡男である信忠まで死去していたことも少なからず影響している可能性がある。
評価[編集]
同時代の評価[編集]
同時代人による信長の評価は次の通りである。
- 上杉謙信は信長の上洛を知った際、「武将の興起は天命によるものであり、一個の人間の力ではなし難い面がある。相模国の北条氏康、甲斐国の武田信玄、そしてわしのごときは弓矢を取っては他家からの辱めを受けたことがなかった。しかし、辺要を守って京都への軍旅はままならなかったため、いたずらに歳月を過ごした。(略)信長ひとり都に近い国に生まれ、地の利を得て、美濃国の斉藤が横暴を働いているときに乗じて、これを滅ぼし、武道も末となった近江国の六角を圧倒し、大業の半ばを成就した。信長は果報な武将である(『北越家書』)。
- 信長より31歳ほど年下の江村専斎によると、江村が子供の頃は内裏は荒廃しており、土塀もなく竹垣に茨を結いつけている有様だったので、敷地内に入り込んで泥団子をこねて遊んでいたりした。だが、信長が上洛して内裏を修理した結果、ようやくまともになったと語って賞賛している(『老人雑話』)。
- 信長の死から6年後の天正16年(1588年)6月2日、7回忌に当たる年に奈良興福寺の多聞院英俊は、「信長去る二日第七回、さしたる追善の聞こえもこれなし」と嘆いており、既に秀吉の時代に信長のことが忘れられていたことが挙げられている(『多聞院日記』)。
江戸時代の評価[編集]
江戸時代における信長の評価は余り芳しい物ではなく、むしろ低調なものが少なくない。これは江戸時代における体制が大きく影響している。江戸時代は儒教が基本的価値観を形作っており、儒教における理想的政治とは仁徳によって人々を従わせる王道であり、信長のようにずば抜けた武力・策略によって人々を抑えつける政治、つまり覇道は好ましくないと考えられていたからとも見られる。
江戸時代における信長に対する評価は、以下のようなものがある。
- 「信長は知勇兼備の名将で私利私欲に走らず、人を見る目があった」「武道のみを専らに用いて文を疎かにした、家臣に対して酷薄であった、家臣の諫言を受け入れなかった」(『甫庵信長記』)。
- 林羅山の言葉を引く形で信長を「天性刻薄の人」と批判し、さらに羅山によれば「信長は勇猛ではあるが仁徳がなく、功臣であっても用済みになれば処罰する」と評価している(日本通史『本朝通紀』)。
- 徳川光圀は明智光秀のことを「君(信長)を弑す大賊臣なり」と光秀を非難しているが、その続きにおいて「その根は信長公の不徳におわしましけるより出たる所なり。いつの代にても、その君不徳ならば、その臣に明智がごとき者出来すべし」と述べている。つまり光秀が謀反を起こしたのは、信長に仁徳がなかったからだと評している(『西山遺事』)。
- 新井白石は自らが著した『読史余論』において、信長を「天性残忍」と非難し、さらに信長を「詐力(恐らく、足利義昭を大義名分として利用したこと)」によって権力を得たのだから滅亡は自業自得であり不幸ではない、と説いている。足利義昭という主君を裏切るような凶逆の人が家臣に裏切られて滅亡するのは当然のことである、と白石は主張している。さらに『甫庵信長記』による信長には優秀な人材を見極める眼力がある、という主張に対しても白石は批判し、信長が才能を見込んで抜擢した人物と言えば、明智光秀と豊臣秀吉であるが、この2人がしたことを思い出してみよ。光秀は信長を殺し、秀吉は織田家から天下を奪ったではないか、と白石は論じて、能力だけで人を判断するのは誤りだと述べている。ただ、信長をこれだけ非難している白石であるが、比叡山焼き討ちについてはむしろ信長のその行為を「天下の功有事」として賞賛している。
このように、江戸時代における信長は「戦は滅法強く、政治も才能があったが、仁徳が全くない狭量な人物」として非難の的にされていた。しかし、江戸時代後期になり社会不安が増大して尊王運動が盛り上がりだすと、信長の評価は一変する。
- 江戸時代後期を代表する歴史家の頼山陽は、信長のことを『日本外史』において、「群雄割拠の戦国乱世において次々と敵を打ち破った信長の武略を賞賛した上で、「これを超世の才といわないことができようか、いやできない、いうべきであろう」「応仁の乱以降、日本は分裂し、天皇のお膝元である京都すら常に戦場となった、信長以外の誰が乱世を鎮めて「王室を再造」できただろうか」と評し、信長による全国統一事業は天皇のためだった、と山陽は解釈している。
- 「天下に皇室の尊きを知らしめ給へり」(国学者の平田篤胤の著書『玉襷』)。
- 幕末の志士として活躍し、禁門の変で自害した真木和泉は、『信長論』において信長の勤皇を称賛している。
現代の評価[編集]
現代における信長の評価は非常に高いものと、逆に貶めようと低くしているものが存在する。ただ、「日本の戦国時代の覇王と言えば?」や「日本の代表的な戦国武将」と言われれば、ほぼ真っ先に出てくるのが信長の名前となっているほど、現代では知名度も人気も高い。
信長の評価の見直しも進められているが、質の大変低い学者が故意に貶めているものもあり注意を要する。例えば成蹊大学名誉教授の池上裕子という人物が信長の評価を大変低いものとして人物叢書「織田信長」でかなりの劣悪評価をしており、平成25年(2013年)7月28日の東京新聞でもかなりの劣悪評価をしているが、このようにレベルの低い学者による評価があるのが実情である。以下に東京新聞における池上裕子の信長評を紹介する。
- ①「(信長は)支配領域である分国を広げ、全国を分国として支配するためにの戦争に明け暮れた。その戦いは、武士や領主階級を統合するためのものだったとも言えません。各地の地域権力を基本的には滅ぼし、絶対服従するものだけを編成していった。それを平和をもたらす統一のための戦争だったと特別に評価するのはおかしい。関所廃止や楽市令など流通政策は信長の特徴です。でも農民をどう支配するか、武士全体をどうしていくかという全国区の政策は信長にはない。だから統一政権とは言えないと思う」
- ②「(信長に抵抗する者は)たくさんいた。戦国大名、一向一揆とか。なぜそれほど抵抗が大きかったのか。室町幕府の全国支配がうまくいかなくなって戦国大名が成立してくる。各地に地域権力が生まれ、農村では村という共同体が成立していった。いろんなレベルで地域社会ができ始めていた。信長は外から、それをどんどん壊そうとした。だから地域の人たちは強く抵抗した。信長に抵抗する側にも、抵抗するだけのちゃんとした論理があった。そう考えないといけない。「抵抗した側には歴史の先を見る目がなかった」と評価を下す人が結構います。支配者は歴史の進むべき方向が見えていたと。それは違うと思う。信長には、皆殺しにしないとまた抵抗が起きるという不安があった。秀吉も最初、信長のような戦争の仕方をしたけれど明確な勝利は収められなかった。それで地域の支配者を認めながらその上に自分が立つ支配の仕方を考えた。だから島津、毛利、大友にしろ秀吉の下で生き残った。天下統一も信長が死んでから八年と早かった」
- ③「(人物叢書「織田信長」の自書で、信長は、百姓・村とは正面から正面から向き合わなかったと指摘したことについて)信長以外の戦国大名には「武士は農民を勝手にこき使ってはいけない」とか、農民に対する政策があった。信長後の秀吉、家康にもあった。信長にはない。農民が生活できなくなれば社会は成り立たない。ですから農民全体がどんどん疲弊していく政策は、あってはならない。秀吉は太閤検地や石高制と、一応その仕組みづくりをした。信長は各地の支配を重臣に任せ、その重臣たちが各地でいろんな政策を試みました。信長自身がやったことはありません」
と池上は評価している。しかし、①尾張半国から天下統一するために領国を拡大するのは当たり前である。しかも信長は滅ぼしたというが、石山本願寺は軍事力を解体しただけで許しているし、雑賀衆も取り込んでいる。美濃の斎藤家や阿波の三好家も本家を滅ぼしただけで他の一族や家臣は用いているし、これを徹底的に潰したと言えるのだろうか。次に、②秀吉の天下が八年と早かった、とあるが、信長が家督相続した時点で支配下に置いていたのは尾張南部だけであり、それですら一族と争っている状態だった。それに対して秀吉のスタートは本能寺時点で播磨国を中心とした中国地方東部からであり、これを同列にして考えるなど論外としか言いようがない。しかも島津などは信長に従属しながら秀吉には逆らって降伏した大名家で、秀吉がそのように支配を大幅に認めた結果として起きたのが関ヶ原の戦いとも言えるので、これが正しいと言えるのであろうか。最後に③信長は百姓と向き合っていなかったといわれているが、信長は越前国掟あるいは甲斐武田家を滅ぼした際に出した掟などで自ら統治方針を定めており、とても見向きしていなかったとは思えない。「信長は各地の支配を重臣に任せ、その重臣たちが各地でいろんな政策を試みました。信長自身がやったことはありません」とあるが、信長は重臣の所領に奉行を差し向けて様々な差配をしており、これも何もしていない内に入るのであろうか。
このように池上裕子のような極端すぎるほどレベルが低い劣悪な学者によって信長が貶められている例があり、信長の現代評価には注意が必要である。
また、池上は自著「織田信長」で信長を貶めるような劣悪かつ低レベルな評価をしており、むしろ池上の学者としての知識を疑いたくなるようなレベルである。まず一例を挙げる。
池上は「信長は直臣の所領高を把握せず、それに見合う軍役量を規定しなかった。むしろ信長は軍役量を規定せず戦果のみを求めた。つまり信長は軍役数を定めないまま本領を安堵し、新知行を与え、それに応じて家臣自身の自己責任と裁量で兵数や装備を確保させた。この場合、どれだけの兵力と装備が用意できるかは家臣の忠誠心と関わるため、常に信長の目が光ることになり、むしろ定量の軍役数を規定するよりも家臣らは過重で際限なき軍役数を課せられる結果になった」と述べている。池上はこれを「織田に軍役に関する史料がほとんど無いことを根拠に」述べている。つまり、池上のレベルはここまで低いのである。
実際に信長は検地や知行差出を行なって軍役や諸役の賦課をしている。『信長公記』では足利義昭の離反に備えて丹羽長秀に造船の建造を命じた際に長秀の他の諸役を全て免除しているとあり、信長が家臣に対する諸役の量を把握していた一例と見ることができるし、他においても「菅屋長頼を奉行として御着到を付けさせた」(巻11)、「秀吉の所領である播磨で百姓を呼び出し、知行差出などを申し付けた」(巻13)、「堀秀政に和泉の知行方を改めさせ、員数を調べさせた」(巻14)、「矢部家定、猪子高就らを青龍寺に派遣して細川藤孝の知行を改めさせた」(巻14)、「菅屋長頼を奉行として諸軍の兵力を調べさせ、兵粮を信濃に輸送させた」(巻15)とある。つまり、信長も動員兵力の把握はしていたのである。これは信長の忠実な同盟者であった徳川家康でも、松平家忠の『家忠日記』において天正6年(1578年)11月7日条、同年11月11日条などから着到を調べていたことは明らかである。家忠日記の史料としての信頼性はかなり高いのでこれは信頼に足ると見られ、家康と同盟国であった信長が当時、所領や兵力の動員力や生産力を把握していなかったとはとても思えないし、調査をしていなかったとはとても思えない。つまり、池上のレベルの低さがここによく現れているといえるだろう。
また、池上が言う「信長は軍役量を規定せず戦果のみを求めた。つまり信長は軍役数を定めないまま本領を安堵し、新知行を与え、それに応じて家臣自身の自己責任と裁量で兵数や装備を確保させた。この場合、どれだけの兵力と装備が用意できるかは家臣の忠誠心と関わるため、常に信長の目が光ることになり、むしろ定量の軍役数を規定するよりも家臣らは過重で際限なき軍役数を課せられる結果になった」は、恐らく本能寺のちょうど1年前に制定された『明智光秀家中軍法』が根拠ではないかと思われる。これによると知行100石につき軍役6人とある。普通、100石は3人なので確かに過重である。しかし、馬上一騎に歩兵2人、さらに鉄砲は知行300石以上の者が負担することと別の部分で緩めているのが確認できる。この知行高を池上が言う検地をして把握していたとする後北条氏や甲斐武田氏と単純に比較するのは少々難があるが、後北条氏の場合は「馬上一騎につき歩兵3人、100貫文につき20人から30人の負担」とあり、これだとむしろ織田家より後北条家のほうがかなり過重な負担を課していた可能性が高い。いずれにせよ、池上がいう「織田信長は後進的」というような評価は完全に的外れとしかいいようがないのである。
余談[編集]
余談であるが、織田信長の子孫を自称している元フィギュアスケート選手の織田信成の真偽は不明であり、しばしば議論が繰り広げられていた。
脚注[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]