北条氏直

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北条 氏直(ほうじょう うじなお、永禄5年(1562年) - 天正19年11月4日1591年12月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名相模戦国大名で、小田原城主。後北条氏の第5代当主。正室徳川家康の娘・督姫。兄に新九郎。弟に太田源五郎太田氏房千葉直重直定源蔵勝千代。妹に芳桂院殿千葉邦胤室)、竜寿院殿里見義頼室)がいる。

生涯[編集]

家督相続[編集]

父は第4代当主・北条氏政。母は武田信玄の娘・黄梅院。幼名は国王丸(くにおうまる)。氏直は次男で長男に新九郎がいたが、この長兄が早世したために世子となる。永禄12年(1569年)5月、今川氏真から名跡を譲られている。しかしこれは元亀2年(1571年)末に武田信玄との間に甲相同盟が締結されると自然に消滅した。

天正4年(1576年)末、あるいは天正5年(1577年)初めに元服し、後北条家の歴代当主の仮名である新九郎を称した。

天正8年(1580年)8月19日、父の氏政から家督を譲られて当主となった。当時、後北条家は甲斐武田勝頼御館の乱を経て敵対しており、対武田氏のために徳川家康織田信長と連携していたが、氏政は信長に服属することを表明し、その見返りに信長の娘(慈眼院)を迎える約束がなされたという。この当主交代は信長の娘婿となる氏直を当主に据える必要があったからと見られている。

勢力拡大[編集]

天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、氏直も駿河・西上野の武田領に侵攻する。これにより3方から攻められた武田領国は崩壊し、武田勝頼は天目山自害して武田家は滅亡した。この際、氏直は駿河東部を制圧し、東上野の国衆を従属させていたが、戦後の3月23日に武田家の領国の仕置が信長により発令されると、駿河は家康に、上野は滝川一益に与えられることになり、氏直の領国は削減されることになった。

しかし6月2日、本能寺の変が発生して信長・信忠父子が明智光秀により殺害された。これにより旧武田領では武田家旧臣による騒乱が勃発し、織田氏と後北条氏の領国などにも混乱が波及した(天正壬午の乱)。氏直も一益も互いに疑心を抱いたとされ、6月16日に氏直は一益と手切れとなり、氏直自ら総大将として大軍を率いて上野倉賀野(群馬県高崎市)を攻め、6月18日から6月19日にかけて神流川の戦いが行なわれる。滝川一益も善戦したが、上野を領国化してから3か月足らずという不運があって氏直に大敗して上野を放棄して敗走し、氏直は一益を追撃して7月に信濃に侵攻し、小県郡佐久郡諏訪郡などの国衆を服属させた。さらに川中島に侵攻して越後上杉景勝と対戦し、景勝と和議を結ぶと甲斐に転戦して家康と対戦した。この若神子の陣は氏直が兵力で優勢であったが、家康の後方攪乱と真田昌幸の離反、補給路の確保の困難などから氏直の劣勢となる。このため、10月29日になって氏直は家康と和睦し、甲斐郡内や信濃佐久・諏訪両郡を家康に割譲し、家康は氏直に対して真田昌幸が領有する上野沼田領の割譲を受けるという国分協定を結んだ。また、徳川氏と後北条氏の和睦・同盟関係の強化のため、家康の次女である督姫を氏直に嫁がせるということも取り決められた。氏直と督姫の祝言は天正11年(1583年)8月15日に行なわれた。

天正11年(1583年)9月、氏直は上野厩橋城北条高広を従属させる。ところが10月に新田の由良国繁や館林の長尾顕長らが離反したため、天正13年(1585年)1月までその鎮圧に努めている。また、天正12年(1584年)4月に下野佐野氏を攻略するために下野を攻めるが、常陸佐竹義重がその支援に駆け付けたため、藤岡と沼尻(栃木県栃木市)で対陣した(沼尻の戦い)。この対陣はおよそ3か月にわたって行なわれた。

なお、この戦いはちょうど西で小牧・長久手の戦いが行なわれていた頃にされており、佐竹義重は羽柴秀吉と結んでいたことから、この争いは秀吉と家康の代理戦争のような形になっていたのである。つまり、氏直は秀吉と敵対関係になっていたのである。

小田原征伐[編集]

天正13年(1585年)6月、秀吉が家康と氏直の討伐を表明したため、10月に後北条氏の家老と徳川氏の家老が起請文を交換して同盟関係を強化している。しかし家康は秀吉の妹・旭姫結婚し、さらに秀吉の生母・大政所を差し出したことから天正14年(1586年)1月に秀吉に服従せざるを得なくなり、10月に上洛して正式に秀吉への臣従を表明した。そして氏直も家康を通して秀吉の関東惣無事令の通達を受け、秀吉との対決か従属かの選択を迫られる。

そしてこの頃から秀吉による小田原征伐が広く風聞として流されるようになり、氏直は北条領国を総動員している。しかし家康から天正16年(1588年)5月21日に秀吉への服属を勧告されて氏直はこれを承諾し、閏5月に正式に秀吉への服属を表明した。6月初旬にはその御礼言上のため、氏直の叔父にあたる氏規上洛し、8月22日に氏規は聚楽第で秀吉に対面した。この際、秀吉は隠居している父の氏政か、氏直自身の上洛と対面を要求し、氏直は上洛の交換条件として天正壬午の乱の時から問題化している沼田領問題の解決を求めた。

天正17年(1589年)2月、秀吉は氏直が自力で沼田領を経略しなかったことなど経緯を踏まえて、沼田領のうち3分の2を氏直に、3分の1を昌幸に安堵する裁定を下し、氏直は6月初旬に了承して12月に氏政が上洛することを秀吉に約束した。これにより、秀吉の命令で7月に沼田領の割譲が行なわれた。ところが10月末になって氏直の叔父・氏邦の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の属城である名胡桃城を攻略するという事件、いわゆる名胡桃事件を引き起こした。秀吉はこれを違約行為と見なして氏直自身の年内上洛と猪俣の処刑を要求し、これが実現しなければ後北条家を赦免しないと11月24日付で氏直に条書で送付した。いわゆる宣戦布告状であり、秀吉の強硬な態度に驚いた氏直は秀吉に弁明し、来春に氏政を上洛させることなどで妥協を求めたが、秀吉は受け入れず、12月17日になって氏直も秀吉を迎撃するために戦時体制を取り始めた。

しかし天正18年(1590年)3月から秀吉による大規模な北条領侵攻、いわゆる小田原征伐が開始されると、豊臣軍の前に北条方の諸城は次々と陥落させられ、4月初旬には居城の小田原城を包囲された。関東各地の城も、忍城を攻めた石田三成の部隊には善戦したが、上杉景勝、真田昌幸・前田利家・徳川家康などの別動隊によって6月下旬までに攻略され、7月1日になって氏直は秀吉への降伏に同意し、7月5日に弟の氏房と共に城から出て投降した。7月6日に小田原城は開城となった。

氏直は自らの切腹を条件に城内の将兵の助命を秀吉に願うが、秀吉は氏直が家康の娘婿であることから助命。叔父の氏規と共に、高野山への追放を命じられた。こうして後北条氏は戦国大名としては滅亡。小田原開城後の関八州は江戸を根拠に舅の家康が入り、後の江戸幕府開府のきっかけとなった。

最期[編集]

氏直は8月に高野山に入る。天正19年(1591年)から氏直は家康を通じて秀吉に赦免を求め、2月には秀吉から赦免の内意が伝えられた。5月に秀吉から大坂への移住を命じられ、8月19日に大坂城に入城して秀吉に拝謁し、正式に赦免された。またこの際、所領として1万石を与えられて大名として復活している。

しかし10月下旬に氏直は疱瘡に倒れ、11月4日に病死した。30歳没。

氏直の子供は女児だけで男児が無かったため、従弟の氏盛養子となり家督を継いだ。後北条氏は戦国大名の面影は無くなったが、江戸時代河内国狭山に陣屋を持つ大名として代々継承された。

子女[編集]