大藤政信

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大藤 政信(だいとう まさのぶ、? - 天正13年5月23日1585年6月20日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏家臣

略歴[編集]

父は秀信(初代政信)。妻は同僚の山角康定の娘・花桂宗誉禅定尼。父と同じ通称の与七、諱も主君の北条氏政からの偏諱を受けているため、父と区別するために2代目政信、あるいは父は初名の秀信で表されることが多い。なお、この2代目政信の子に与七、小太郎がいる。

元亀3年(1572年)11月、父の初代政信が武田信玄西上作戦に援軍として参加している際に、二俣城の戦い戦死したため、家督を継承した。氏政・北条氏直に仕えている。

Wikipediaでは天正14年(1586年)と出鱈目が記載されているが、実際には前年の天正13年(1585年)5月23日に死去している。法名は傑捜林英[1]

脚注[編集]

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  1. 『相州日牌帳』