長林院殿
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長林院殿(ちょうりんいんでん、生没年不詳)は、戦国時代の後北条氏の一族。北条氏康の娘。北条氏政の妹で岩槻城主の太田氏資の娘。実名は不詳。
生涯[編集]
氏康の娘で氏政の妹。太田氏資が天文11年(1542年)生まれのため、それと同時期の生まれの可能性がある。
氏資が永禄10年(1567年)8月23日の三船台合戦で里見義弘に敗れて戦死すると、太田氏は当主不在となった。長林院殿と氏資との間には長女の小少将しかなく、男子は無かったようであり、そのため兄の氏政は直ちに軍を派遣して岩槻城を接収して9月に仕置を行い、11月に江戸城に帰陣しているが、この際に長林院殿も氏政に同行している。その後は父の氏康がいる小田原城に戻って出家した[1]。
天正3年(1575年)、氏政の次男で長林院殿にとっては甥に当たる太田源五郎が小少将の婿となり、長林院殿の養子となって太田氏の家督を継いで岩槻城に入ると、それに伴って長林院殿も岩槻城に入った。恐らく幼少の源五郎を後見していたものと思われるが、源五郎は天正10年(1582年)7月に早世し、これをもって岩槻城の太田氏の名跡は断絶した。その後、氏政の命令で今度は源五郎の弟の北条氏房が入るが、長林院殿とその娘の小少将はなおも岩槻城に留まり、未亡人となった小少将は氏房の妻となった[2]。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際も長林院殿は存命が確認され、娘の小少将と共に岩槻城に籠城していたようであるが、その後の行方は不明である[2][3]。