北条氏房

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北条 氏房(ほうじょう うじふさ、永禄7年(1565年) - 天正20年4月12日1592年5月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の一族で家臣。武蔵岩付城主。

父は北条氏政[1]。母は武田信玄の娘・黄梅院とされるが、別人説もある。兄に新九郎氏直太田源五郎。弟や姉妹に千葉直重直定、源蔵、北条勝千代芳桂院殿千葉邦胤室)、竜寿院里見義頼継室)、庭田重貞室らがいる。正室は小少将(岩槻御前)。

生涯[編集]

父は北条家第4代当主・北条氏政で4男。母は黄梅院殿とされるが、一説に弟の北条直定と同母兄弟とする説もある[1]。幼名は菊王丸(きくおうまる)[1]。仮名は十郎[1]天正8年(1580年)頃に元服して氏房と称した[1]

天正10年(1582年)7月に兄の太田源五郎が嗣子無く死去したため、その跡と所領を継承した[2]。ただし若年の事もあり、天正13年(1585年)7月までは隠居していた父の氏政の後見を受けており、岩槻衆に対する軍事指揮権や領内裁判権などは氏政が掌握していたという[2]

なお、氏房は太田姓で称されることが多いが、太田姓が確認できるのは軍記物語だけで、一次史料で氏房は平姓を称しているため、北条を称していた可能性が極めて高い。また、第5代当主・北条氏直の実弟として事実上、氏直に次ぐナンバー2の扱いを受けていたことから、氏政の後妻であった鳳翔院殿養子になっていた可能性も指摘されている。

氏房は天正13年(1585年)7月に婚姻しているが、相手に関しては不明である。相手の女性小少将あるいは岩槻御前などと言われているが、出自に関しては不明である。また、婚姻して一人前と見られたのか、氏政は氏房の後見から外れて氏房自らによる岩槻支配が進められていった[2]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐において、氏房自らは北条家の居城である小田原城に入城し、妻の小少将らは岩槻城に籠城した[3]。そして岩槻城は本多忠勝浅野長政豊臣軍の攻撃を受けて落城し、小少将らは岩槻から退去した。氏房も7月に氏直と共に秀吉に降伏して小田原を開城し、氏直と共に高野山に隠棲する。天正19年(1591年)に氏直が秀吉により赦免されると、氏房も赦免されて秀吉の直臣に取り立てられる。そして秀吉の朝鮮出兵が開始されると、氏房もそれに従って肥前名護屋城まで赴き、そこに在陣中の4月12日に死去した[3]。28歳没[3]。法名は梅雲院殿玉翁昌蓮大禅定門[3]

なお、氏房については肥前唐津城主の寺沢広高(正成)に預けられたとする記録もあるが、秀吉から赦免された後に改めて他者に預けられるというのは考えにくく、そもそも氏房が死去する頃はまだ寺沢氏は唐津の領主ではない[3]。恐らく墓所が寺沢氏の領地となったことによる誤解と見られている[3]

氏房の葬儀に関しては氏直の舅である徳川家康が指示を出したとされており(『医王寺略縁起』)、このことから氏房はむしろ家康と親密な関係にあったと見られている[3]

脚注[編集]

  1. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P115
  2. a b c 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P116
  3. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P117

参考文献[編集]