長篠の戦い

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長篠の戦い/設楽原の戦い
戦争: 長篠の戦い
年月日: 1575年6月29日
場所: 尾張国設楽原(現在の新城市設楽原)
結果: 織田・徳川連合軍の勝利
交戦勢力
織田・徳川連合軍 武田軍
指揮官
織田信長 武田勝頼
戦力
信長軍鉄砲隊 武田騎馬隊
損害
約6000人(諸説あり) 約10000 - 12000人(諸説あり)

長篠の戦い(ながしののたたかい)とは、1575年6月29日尾張国設楽原織田信長武田勝頼の間で起こった戦争である。設楽原の戦い(したらはらのたたかい)、長篠合戦設楽原合戦とも呼ばれる。この戦いは信長が鉄砲を3段に有効活用して勝頼の武田騎馬隊を完膚無きまで叩き潰した、というのが通説とされていたが、令和年間の現在ではそれが大幅に見直されている。

背景と経緯[編集]

1554年北条氏康武田信玄今川義元の間で締結された甲相駿三国同盟により関東地方東海地方の安全性が確立された。しかし、信玄は同盟を破り北条領に侵攻した(信玄の小田原征伐)。氏康は籠城戦の末、信玄を撤退させる事に成功した。しかし、1560年に義元が桶狭間の戦いで戦死、1571年に氏康が病死すると、同盟は自然に消滅した。さらに2年後、信玄も急死した。

そこで勝頼は武田氏当主となり、繁栄期を築いて行こうと試みた。有力家臣は馬場信春で、武田信虎、信玄、勝頼の3代に渡って仕えた。勝頼は当主となった前期、信長の60もの城を全て攻略[1]したり、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させたりするなど快進撃を見せた。

これに反発して奥三河の領主奥平貞能信昌親子は武田から離反。武田が長篠城目前まで進出し苦境に陥った。この状況に信長と家康は、何とか勝頼を討つと考え始めた。そこで目をつけたのが火縄銃である。

鉄砲は、1543年種子島にて伝来した。初めて島津氏がその鉄砲を手にし、そこから信長も鉄砲に目を向け始めた。しかし、伝来から30年以上経った年でも鉄砲は本格的に戦争で使われず、世間からは忘れ去られかけていた。その理由として、次の様な理由が挙げられる。

  • 弾の装填時間が約30秒、装填中に敵軍が攻めてくる可能性がとても大きかった為
  • 連発が出来ない
  • 大きな音が出る為敵に見つかりやすいから使う意味がない

などがあった。しかし信長は、3段式のやり方を開発し、デメリットを瞬く間に解消した。 詳しくは、本戦 の節を参照 この火縄銃が、結果を大きく揺らす事となる。

本戦[編集]

28日深夜に戦は始まった。武田軍は長篠城から兵が出ていき、連子川をまたいだ先に信長軍鉄砲隊は待ち構えていた。騎馬軍は 3段式は、まず3列目で弾を装填、2列目で着火し、1列目で引き金を引き撃つというものであった。さらに騎馬隊の攻撃を防ぐ為に馬防柵という柵も完備しているる。戦が始まって2時間ほど経った頃、豊臣秀吉が参戦。さらに徳川四天王の1人である酒井忠次らの軍も武田軍に包囲されている長篠城を迂回、北部に所在する本陣を突いた。忠次は油断した長篠城の部隊も攻撃、長篠城を解放した。その様な甲斐あり戦が始まってから約8時間後に終戦、結果は信長軍の勝利として終わった。

その後[編集]

  • 勝頼はこれにより大敗、遠江の領地や高天神城も全て失った。そして9年後、信長に追いやられ自害した(天目山の戦い)。これにより武田氏は滅亡した。
  • 長篠城を守った奥平信昌は戦功により、長篠城より下流の井ノ口に新城城を建て、家康の娘婿として家康の与力大名となった。
  • 昭和中期からは決戦場まつりという祭りも6月6日に毎年開催される様になった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 攻略した城の数には諸説がある。