太田源五郎
太田 源五郎(おおた げんごろう、? - 天正10年7月8日(1582年7月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏の一族で家臣。武蔵岩槻城主。実名は不詳。幼名は国増丸[1]。父は北条氏政。母は不詳。正室は太田氏資の娘。兄は新九郎、氏直。弟や姉妹に氏房、千葉直重、直定、源蔵、勝千代、芳桂院(千葉邦胤室)、竜寿院(里見義頼継室)、庭田重貞室らがいる。
生涯[編集]
北条氏政の次男[1]。永禄12年(1569年)の時点で5歳あるいは6歳という記録があるため、生年は永禄7年(1564年)か永禄8年(1565年)の可能性がある[1]。
永禄12年(1569年)、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始したため、北条氏康・氏政父子は信玄に対抗するため、越後の上杉輝虎と越相同盟を成立させる。その同盟の条件として氏政の実子である源五郎を輝虎の養子とすることが決められ、6月に正式に決定された。ところが4か月後の10月になって氏政が源五郎を越後に送ることを幼少を理由にして難色を示したため、謙信の養子には氏康の6男である上杉景虎と改めて決められた上で越後に送られた[1]。
武蔵岩槻城は後北条氏が関東を支配する上で重要な拠点であったが、永禄10年(1567年)に里見氏との上総三船台合戦において当時の城主である太田氏資が戦死し、氏資には娘しか子がいなかったことから太田氏は当主不在の状態となっていた。氏政は源五郎を氏資の娘と結婚させて婿養子として太田氏の名跡を継承させ、家督相続を行なわせて岩槻城主とした。ところが、それまで岩槻の支配を担当していた北条氏繁との関係が悪化したりするなど、スムーズには継承できてない模様である[1]。
なお、仮名の源五郎は太田氏歴代当主の名乗りである[1]。天正8年(1580年)に元服したが、何故か史料に実名が伝わっていない[1]。そのため、太田源五郎として仮名でしか名乗りがわからない[2]。
なお、元服の年は兄の氏直が後北条氏の家督を相続した年であり、恐らくそれを契機に元服して自身の岩槻支配も開始したものと推測されている。天正10年(1582年)2月より織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、駿河方面から北条軍の大将のひとりとして出陣し、河東地域から富士川沿いを北上して同地域を制圧している。しかし同年の7月8日に死去した。18歳あるいは19歳没[2]。
法名は広徳寺殿功林宗勲大禅定門[2]。早雲寺内に源五郎の菩提寺として広徳寺が建立された[2]。
源五郎には子が無く、その死去により岩槻太田氏は断絶となった[2]。