浄光院 (足利義氏正室)
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浄光院(じょうこういん、? - 天正9年6月15日(1581年7月15日))は、戦国時代の女性。第5代古河公方・足利義氏の正室。実名は不詳。
略歴[編集]
後北条氏の第3代当主・北条氏康の娘。母は瑞渓院殿と見られるが、瑞渓院殿と養子縁組をしていた可能性が指摘されている。これは浄光院が父の菩提寺として曹洞宗系寺院の大聖院を建立しており、実家の臨済宗大徳寺系とは異なることからであり、また足利義氏の正室になるにあたって瑞渓院殿と養子縁組して嫡出女の体裁が取られた可能性が想定されている[1]。『今川家瀬名家記』では「古河御所御前養女」と記されている。
生年に関しては足利義氏の生年である天文10年(1543年)とほとんど変わりないと見られていたが、浄光院が庶子あるいは養女の可能性が指摘され、さらに子女の生まれが天正年間になることから、実際は義氏より10歳以上若い天文年間末期から弘治年間と見られている。婚姻の時期については義氏が古河城に復帰した元亀元年(1570年)あたりと見られている[1]。
義氏との間には長女の足利氏姫(1574年生まれ)、長男の足利梅千代王丸(1576年生まれ)、次女の1男2女に恵まれているが、成人するまで存命していたのは長女のみであった[1][2]。
浄光院は義氏に先立って、天正9年(1581年)6月15日に死去した。法名は浄光院殿円桂宗明大禅定尼[2]。