小笠原康広
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小笠原 康広(おがさわら やすひろ、享禄4年(1531年) - 慶長2年12月8日(1598年1月15日))は、戦国時代の後北条氏の家臣、後に徳川氏の家臣。父は小笠原元続。叔父に小笠原弥六がいる[1]。
生涯[編集]
幼名は孫増。天文15年(1546年)2月以前に元服し、家督を相続していた可能性がある。家督相続時に所領内の飯泉山別当坊に寺領を寄進した[1]。
諱の康広は北条氏康からの偏諱である[1]。仮名は六郎。官途は兵部少輔。受領名は播磨守[1][2]。
妻には氏康の娘、あるいは氏康の弟・北条為昌の娘と見られる種徳寺殿を迎え、後北条家の一門として迎えられている。氏康・北条氏政・北条氏直の3代に仕え、主に外交関係や武家故実などの儀礼面で活躍した。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条家が滅亡すると、当主の氏直に従って高野山に入り、ここで出家して播磨入道と号した。また、天正19年(1591年)に高野山で家族の供養をしている。同年、氏直が死去したため、翌年に徳川家康の家臣となり、慶長2年(1597年)12月8日に死去した。享年67。法名は宗有[2]。
妻の種徳寺殿との間に、長男の長房、娘2人(伊東政世正室と蒔田頼久正室)があったといわれている[2]。