武田義信
武田 義信(たけだ よしのぶ、天文7年(1538年)[1] - 永禄10年10月19日[1](1567年11月19日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の一族で一時は武田信玄の嫡男であったが、廃嫡されて間もなく死去した。正室は今川義元の長女・嶺松院。子に娘の園光院がいる[1]。弟や妹に海野信親、信之、黄梅院、見性院、勝頼、真竜院、仁科盛信、葛山信貞、信清、松姫、菊姫らがいる。
生涯[編集]
父は武田信玄で長男[1]。母は信玄の継室である三条夫人(円光院殿)[1]。仮名は太郎[1]。天文19年(1550年)12月7日に13歳で元服し、天文21年(1552年)1月8日に具足始めを行ない、11月27日に今川義元の長女・嶺松院を正室に迎える[1]。この際の義信の結婚は甲斐国を挙げて祝われる壮大なものであったと『妙法寺記』には伝わる[2]。
後年に義信事件が起きているため信玄・義信父子は不仲だったと言われることが多いが、『甲陽軍鑑』には信玄が義信を誰よりも愛したという深い親心を示す記録がある[3]。
『高白斎記』によると天文22年(1553年)7月23日に将軍・足利義輝の偏諱を受けて義信と名乗った。
『勝山記』によると天文23年(1554年)8月に17歳で初陣し、父の信濃出兵に従って伊那郡の平定に従事して大勝したという。
弘治2年(1556年)に足利義輝より三管領に準じる待遇を与えられ、翌年からは父と連署して文書を発給した[1][4]。この頃から武田家の後継者としてその政権中枢に重きを成したと見られている[1]。
しかし永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで舅の今川義元が織田信長に敗れて戦死した[4]。永禄4年(1561年)には第4次川中島の戦いに参加するが、この際の作戦をめぐり義信は父・信玄と衝突を起こし対立する[4]。義信は徹底的な北進を唱え、信玄はこの合戦で多くの将兵を失ったことから国政の充実と南進を唱えたためである[4]。永禄5年(1562年)には異母弟の勝頼に対して信玄が独自の家臣団を付与して信濃高遠城主にしているが、これも義信には不満で信玄に異議を唱えた[5]。この頃から父子対立が見られるようになる。しかしこの時点ではまだ対立は決定的なものではなかったようであり、信玄の上野攻略などに共同して参戦し、永禄6年(1563年)6月には信玄と連署して現在の山梨県御坂町にある美和神社に三十六歌仙の板絵を奉納して武運長久を祈願している[5]。
永禄7年(1564年)、信玄は桶狭間以来家中の分裂や松平氏の独立などで衰退の兆しを見せていた今川氏真の領土への南進策を本格化する。これに対して氏真の妹を正室にする義信は反対して[5]信玄との亀裂が決定的になる。このため義信は自派の重臣の飯富虎昌や側近の長坂源五郎、曽根周防守らと謀議を重ねて信玄を成敗することを画策したとされる[6]。しかしこの計画は永禄8年(1565年)8月に義信事件として発覚し、義信を支持する重臣らは尽く粛清された[1][6]。義信も廃嫡されて甲府東光寺に幽閉され、その2年後に死去した[1]。享年30[1]。死因に関しては信玄の命令による自害が有力であるが、病死の説もあり確定はできていない。死後、正室の嶺松院は氏真の下に送り返されて今川・武田間の同盟は破綻した。
法名は東光院殿躊山良公大禅定門[1]。
人物像[編集]
『甲陽軍鑑』には義信のことを「利根過ぎる大将」と記録している。この利根には「賢い」と「口先がうまく、言い方が巧みな(すなわち頭が良すぎて理屈っぽくなる)」と二つの意味があるため同書がどの意味をもって採用しているのかはわからない。
義信事件についても真相が不明な箇所が多く、一説に武田家臣内部の問題が絡んで起こされたものだったとする説もある。つまり家臣の中で非主流派に甘んじていた者らが義信を支持して信玄ら主流派に対抗するものだったとする説である。義信の死はその後の武田家の運命に大きく影響したとされ、武田家滅亡の一因に数えられることもある。
脚注[編集]
武田義信が登場する作品[編集]
- テレビドラマ
- 天と地と(1969年、NHK大河ドラマ、演:あおい輝彦)
- おんな風林火山(1986年、TBS、演:志垣太郎)
- 武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ、演:堤真一)
- 武田信玄(1991年、TBS、演:南渕一輝)
- 風林火山(1992年、日本テレビ、演:佐野圭亮)
- 風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、演:木村了(幼少時代:加藤清史郎、少年時代:小林廉))
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1
- 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像編集部編、2007年