北条直定
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北条 直定(ほうじょう なおさだ、天正4年(1576年) - ?)は、安土桃山時代の武将。後北条氏の一族。
略歴[編集]
父は後北条家の第4代当主・北条氏政で5男[1]。兄弟姉妹に北条新九郎、北条氏直、太田源五郎、北条氏房、北条直重、北条源蔵、北条勝千代、芳桂院殿、竜寿院、庭田重貞室、鈴木繁光室など。
叔父の北条氏邦の養子となり、氏邦と同じ仮名の新太郎を称した[1]。氏房とは同母の兄弟であるという[1]。名の直定は兄の氏直からの偏諱と見られている[1]。なお、名に関しては氏定(うじさだ)とも見られており、小田原征伐後に改名したものと見られている[1]。
天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に籠城している(『異本小田原記』)。戦後に氏直が高野山に赴くことになると、これに同行した[1]。
その後は出家したものと思われ、似安あるいは良安とする法名が見られている。出家の時期は明らかでは無いが、天正20年(1592年)10月の時点で良安と名乗っていることからこの頃までには出家していたものと推測される[1]。
文禄4年(1595年)に京都か大坂においてその名が見られる(『京大坂之御道者之賦日記』)。これが直定の史料における最後であるため[1]、この後に死去したものと推測される。
正室は叔父の北条氏規の娘[2]。子に氏時がいる。その後、直定の家系は紀伊和歌山藩主の徳川頼宣に仕え、氏常(氏時の子)、氏成(氏常の養子)、氏賢(氏常の養子)と続いているが、その後は定かではない[2]。