大藤秀信
大藤 秀信(だいとう ひでのぶ、? - 元亀3年11月28日(1573年1月1日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
略歴[編集]
父は大藤栄永でその末子とされる。仮名は与七。官途は弘治2年(1556年)4月から式部少輔を称した。
秀信は彼の初めの諱で、元亀元年(1570年)4月から主君・北条氏政の偏諱を受けて政信を称している。息子も同じ政信を称しているため、秀信のことを初代政信、息子のことを2代目政信と呼ぶこともある。
史料においては天文18年(1549年)7月が初見。天文20年(1551年)に父が死去した際には末子であるため家督を相続できなかったが、天文21年(1552年)12月に経緯不明ながら秀信が家督を継承している。秀信には兄に景長、その息子で甥に当たる与次郎がいたが、恐らく嫡子筋の家系が子供無く断絶したからではないかと推定で見られている。永禄2年(1559年)の『北条家所領役帳』では諸足軽衆筆頭として位置づけられており、所領は129貫文であった。
秀信は後北条家の中でも武勇肌の人物だったようで、永禄4年(1561年)3月の越後国の長尾景虎による小田原城の戦いなどにおいて武功を多数挙げ、北条幻庵から「父の名を再興する者」と絶賛されたという。永禄11年(1568年)末に甲相駿三国同盟が武田信玄の駿河侵攻によって破綻すると、北条氏康・氏政父子は駿河国の今川氏真に援軍を派遣したが、この北条軍の大将として秀信と清水康英の名が挙げられ、武功をここでも挙げている。そのため、氏康や氏政から評価されて所領を1500貫文に加増された。
その後、武田信玄が北条領に侵攻してきた際には、相模国足柄城や伊豆国韮山城などを守備した。氏政からの信任は厚く、相模国中郡郡代に任命されている。
元亀2年(1571年)に氏康が死去し、後継者の氏政は武田信玄との同盟を復活させて甲相同盟を締結。これにより、氏政は元亀3年(1572年)から信玄が開始した西上作戦において秀信改め政信を大将とする北条軍2000人を援軍として派遣した。元亀3年(1572年)10月、信玄は政信の援軍を含めた総勢2万5000の大軍で徳川家康の武将・中根正照が守る二俣城を攻撃(二俣城の戦い)。中根は頑強に守備して武田軍は攻めあぐみ、そんな中で政信は11月28日に戦死している。
大藤家の家督は嫡男の2代目政信が継承した。法名は昌翁宗繁禅定門。