千葉邦胤
千葉 邦胤(ちば くにたね、弘治3年3月22日(1557年4月21日)天正13年5月7日(1585年6月4日))は、戦国時代の武将。千葉氏の第29代当主。第27代当主・千葉胤富の次男。妻は北条氏政の長女・芳桂院。子に重胤と北条直重に嫁いだ娘らがいる。
生涯[編集]
家督相続[編集]
千葉胤富の子で、千葉良胤の弟。元亀2年(1571年)11月に元服する。同時期に北条氏政の娘・桂林院と結婚した。父の胤富は後北条氏との関係を強化するため、江戸城代の遠山綱景に後北条家との婚姻関係の形成の要請をしていたが、永禄7年(1564年)に綱景が第2次国府台合戦で戦死していたことからその話はしばらく流れていた。それがしばらくして実現した形になる[1]。
天正2年(1574年)9月から11月の間に、父から家督を譲られて当主となっている[1]。
放屁が原因で殺された武将[編集]
天正13年(1585年)1月1日、居城・佐倉城において正月の祝賀式が行われる。祝賀式の後、書院で家臣らを供応するが、この際に邦胤の近習・鍬田万五郎が配膳係を命じられた。この時、万五郎は放屁を2発してしまう。邦胤はこれを聞いて怒り、万五郎はこれに対して謝らずに口答えしたため、かえって邦胤はさらに激怒して万五郎を折檻した上で斬り捨てようとした。しかし、あまりのことに家臣らが止めに入り、万五郎の身柄をひとまず家臣の椎木主水正へ預けるに留められた。しばらくして家臣から邦胤に対して万五郎を許すように進言があり、邦胤も許して出仕させた。
ところが5月1日深夜、万五郎は就寝していた邦胤の寝所に忍び込むと、そこで短刀を抜いて邦胤を刺した。2度突き刺したが即死にはならず、6日後の5月7日になって死亡した。28歳の若さであった。
北条氏政・氏直父子は邦胤が死ぬと、実子に重胤がいたにも関わらず幼いことを理由に相続を認めなかった。養子として氏政の子で氏直の弟である直重が送り込まれて婿養子となり、千葉家は事実上後北条家に乗っ取られ、5年後の小田原征伐で後北条家と運命を共にすることになった。