武田信玄
武田 信玄 たけだ しんげん | |||||||||||||
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武田 信玄(たけだ しんげん、大永元年11月3日(1521年12月1日) - 元亀4年4月12日(1573年5月13日))は戦国時代の大名、守護大名(甲斐国、信濃国)。妻は上杉朝興の娘、三条の方、諏訪御料人(諏訪頼重の娘)、禰津御寮人、油川夫人など。子は義信、海野信親、西保信之、黄梅院、見性院、勝頼(諏訪勝頼)、真理姫、仁科盛信、葛山信貞、信清、松姫、菊姫。通称・別名は勝千代、晴信(はるのぶ)、徳栄軒、大膳大夫、信濃守、法性院。従四位下。贈従三位。
生涯[編集]
大永元年、甲斐守護武田信虎の嫡男として出生する。母は大井の方(大井信達の娘)。天正5年、佐久郡の海口城を陥落させて初陣を飾った。天正10年、晴信とは不和であった父信虎が今川義元の下へ赴いた際、その隙に父を駿河国へ追放して独立、親子間での下克上を成し遂げる。天正11年から信濃へ侵攻するようになり、諏訪頼重を幽閉の後に殺害、高遠城を落としてその兄弟の高遠頼継を殺害した。次に佐久郡へも侵攻し、上田城に拠っていた村上義清を攻めた。一時は砥石崩れで板垣信方、甘利虎泰ら重臣を失い苦戦するが、真田幸隆の策略によって義清を信濃から追放することに成功した。天文17年、塩尻峠の戦いで小笠原長時を大敗させ深志城から追放し、長時は上杉謙信に匿われた。天正22年~永禄7年までは上杉謙信と度々川中島で争ったが、数度の衝突にもかかわらず決着はつかないままにおわった。特に第4次の戦いは激戦で、信玄と謙信が直接刃を交えたとも言われている(川中島の戦い)。また、その間の弘治元年には木曽義昌を降伏させ、次に飛騨国や美濃国東部にも侵攻している。永禄7年以降は上野国西部へ侵出、北関東で謙信と争った。永禄11年には長年の同盟関係にあった今川氏真を滅ぼしており(氏真は生存)、氏真の救援に向かった北条氏康とも戦いを繰り広げた。元亀2年、氏康の死去にともなって後北条氏と和睦し、その後は徳川家康を攻めた。元亀3年、織田・徳川連合軍と三方ヶ原の戦いで戦火を交え、これを大敗させた。しかし元亀4年の三河国在陣中に病に倒れ、退却途中の伊那谷の駒場で死去した。
信玄の死後、武田氏は廃れていく。
人物・政策[編集]
領国経営としては天文16年に分国法の『甲州法度次第』を発布し、治山・治水・交通制度の整備や、居館外の街建設などの内政を行った。また、和歌や詩文に長けており、文武両道を備えた名将であったと言われている。
また、甲斐国独自の制度を導入。甲州枡や甲州金などと言った様々なものを整備。このうち、甲州金は整備がなされた日本初のお金の一種と伝承される。以上のことから現在でも山梨県民は武田信玄のことを「武田信玄公」と呼び尊敬している。
死因[編集]
武田信玄の死因に関しては多数の諸説があり、現在まで定説を見ていない。
- 隔(現在の癌か日本往血吸虫による病気)という病気(『甲陽軍鑑』)。同書によると信玄は死の6年前に侍医の板坂法印から隔の見立てを受けており、心身がくたびれ果てることになる、とある。
- 肺肝(現在の肺結核)という病気(『武家事紀』)。これは侍医の御宿友綱が武田家家臣の小山田信茂に対して送った申し状に「肺肝の病患」とある。
- 野田城の戦いで武田軍に降伏した野田城兵が開城退去の際に信玄の陣に向けて発砲し、この時に信玄が受傷してこれが元で死去した(『松平記』)。
- 野田城内にいた軽部太郎兵衛という者が黄色い綿帽子をかぶった騎馬武者を信玄と思って狙い撃ちにして、弾丸はその武者の左頬より後頭部にかけて貫通して落馬し、信玄がこの傷が原因で甲府に戻る途中に死去した(『上杉年譜』)。
- 野田城を包囲中、毎夜城内から笛を吹く者があり、信玄は笛の音を好んだためその精妙な音色に引かれて城壁に近寄ったところを狙撃された(『武徳編年集成』)。
これらのうち、狙撃説は余りにも作り話じみていて信頼性に乏しい。これが事実なら野田城の将兵は皆殺しにされていたはずである。『甲陽軍鑑』では暗殺説について元亀4年2月16日の後に来る記述で「野田城を攻めているときに信玄公が鉄砲で撃たれて死んだという噂が徳川家・織田家の中で流れたが、そんなことは全くの嘘。弱い者はいつも嘘をつく」として否定している。
そもそも武田信玄はかなり前から発病していたのは一次史料からも明らかで、西上作戦開始前の元亀3年(1572年)10月1日付で越中一向一揆の大将格である勝興寺に宛てた書状の中で「既に先発隊を出陣させたが、自分は途中で病気を得て躊躇したが、今は回復した」とある。このため、かなり前から発病していたのは確かである。
武田信玄の肖像画に関しては、従来より高野山成慶院蔵の「武田信玄像」。すなわちでっぷりと肥えた肥満体のイメージが強かったが、近年ではこの肖像は能登国の戦国大名であった畠山義続だという説が濃厚になっている。本来の武田信玄は高野山持明院蔵の「武田晴信像」であり、この場合だと痩せ型、適度に筋肉が付いた理想的な体格である。健康面にも気を使って温泉療法に目を付けて温泉地を開発したり、現在の山梨県の名物となっているほうとうを軍用食として用いて滋養に心がけるなど、健康には気を使っていたようである[1][2]。
死因に関しては癌、それも消化器系、恐らくは胃癌であり、それにより衰弱死したものと推測されている。死の前後に喀血していること、記録上などで信玄に高度の貧血症、皮膚が乾燥して黄土色に変色していたことなど、これらは胃癌の末期症状によるものであり、肺結核だと考えにくいものである[3]。また甲斐国の甲府盆地は日本往血吸虫による被害が集中して古くから風土病として知られており、仮にこれに侵されると腹痛、血便、貧血、体重の減少などやはり衰弱死するため、武田信玄の死の前後はかなり衰弱していたと伝えられているところから、胃癌か日本往血吸虫による衰弱死の可能性が高い[3]。
同時代人による評価[編集]
- 織田信長は武田信玄の実力を認め、あるいは恐れて勝頼に姪を養女にして嫁がせて同盟を結んでいた。そのため、後年に信玄が足利義昭ら反信長勢力と通じて同盟を破棄して敵対したことを激怒・憎悪し、上杉謙信に宛てた書状において「前代未聞の無道者」「侍の義理を知らぬ男」「未来永劫に渡って、再び交流することはない」と激怒する心情を語っている。また長篠の戦いの後、家臣の細川藤孝に宛てた書状の中でも「信玄入道表裏を構え、旧恩を忘れ、恣の働き候ける」と書いており、信長は信玄の裏切りに対して終生激怒し憎悪していた模様である。
- 北条氏照は信玄の駿河侵攻に関して「国競望之一理ヲ以」と非難している。つまり領国拡大の野心によって長く存続した武田・今川・北条の三国同盟を破棄したことを非難している(『上杉家文書』)。
- 徳川家康は「信玄ほどの弓取りは無し。今の世に信玄ほどの弓取りは他にあるとは思われぬ。その上、年齢も今50を少し過ぎたばかりであるというのに、死去の儀がまことならば、近頃惜しきことである」と語った。これを聞いていた家臣らも嘆惜し、同時に家康の懇篤の情に深く感じ入ったという(『落穂集』)。
- 上杉謙信は信玄の死去を知った時に湯漬を食べていたが、それを聞いて箸を投げ出し、口に含んでいた食事を吐き出して「さてさて、残り多き大将を殺したるものかな。英雄人傑とはこの信玄のような者をいうのであろう。関東の弓矢の柱を失った。惜しい事じゃ」と言って涙を流した(『古老物語』)。また「信玄は天下の英雄なり。今日より3日の間、春日山城下の侍の家は全て音楽を禁じよ。これは信玄を敬するのではなく、弓矢軍神への礼である」と述べて信玄の喪に服させた(『松隣夜話』)。他にも「信玄は紛れもなき武勇の将で、世に惜しき士であった。これまで信玄とは討つか討たれるかの戦いを何度も繰り返してきたが、信玄が絶命に及んだのちは、日本に兵を起こして信長を討つべき者は、この謙信ただ一人となった。されば今に思うに、信玄が老年に及び、一言我に頼むと言えば、謙信もまた和睦に応じたであろうに、信玄が死去したからには、最早勝頼とは戦うまい。またこののち、信長・家康・氏政らは示し合わせて勝頼を攻めるであろうが、謙信は彼ら3人とは一味せず、武田の領土を侵すこともしない」としみじみと家臣らに語ったという(『上杉年譜』)。
信玄の遺言[編集]
信玄の遺言は『甲陽軍鑑』に記録されている。
- 勝頼に対する遺言。
- 信玄の孫で勝頼の嫡子である信勝が16歳になったら家督を相続させ、軍旗や諏訪法性の兜などを譲るように。それまでの間は勝頼が陣代を務めること。
- 信玄の葬儀は無用にして、3年後の4月12日に具足を着せて諏訪湖に沈めること。
- 信玄のほかに信長を倒せる者は謙信しかいないので、こののちは謙信と和睦して頼ること。
- 信玄の死去が氏政にわかれば背くかもしれないので、弟の信廉を駕籠に乗せ、信玄公が煩を得て甲府へ帰陣されると触れ回ること。信廉はよく似ているから、誰も人はこれを疑わないであろう。
- みだりに隣国と戦争をしないこと。
- 信玄が病気であっても、生きている間は我が国に手出しをする者はおらぬ。されば3年間は深く喪を秘すように。
- 長櫃の中に信玄の印判(印章)をすえた800枚ほどの白紙があるので、これ以後諸方より来た手紙の返書にはこの紙を使い、死を秘すように。
- 重臣・山県昌景に対する遺言。
- 明日、武田の旗を瀬田に立てよ(ただしこれは死ぬ前にうわごとのように述べていたと言われている)。
また、信玄の侍医である御宿監物が小山田信茂に宛てた書状で信玄が勝頼に枕元で次のように語ったとある。
- 「我は小国から隣国、他郡を攻め伏し、策をあぐらして敵を降し、一事として望みを達せぬものはなかった。しかし、旌旗を京都に挙げることができなかったこれは妄執の第一である。信玄の死が世に知られれば、怨敵は時節を見て必ず蜂起する。3、4年の間は喪を秘し、領国内の備えを堅固にして強兵を育てよ。そして父の遺志を受け継いで1度は京都に攻め上ることができたなら、草葉の陰からでも歓喜するであろう」と遺言したという。
死を隠し通せなかった[編集]
信玄は勝頼に自分の死を3年隠せ、と遺言したが、その死は3年どころか1か月も隠せなかった。そもそも信玄ほどの大人物の死を隠し通すこと自体、不可能だったのである。
元亀4年(1573年)4月25日、飛騨国衆の江馬輝盛の家臣・河上富信が上杉謙信の重臣で越中国の責任者である河田長親に以下の書状を送った。
* 「信玄遠行必定の由」(信玄が死んだことはほぼ間違いないと思われます)
この書状は、河田から謙信に4月29日に送られている。つまり、信玄の死はその死から半月後にはほぼ露見していたということになる。
元亀4年(1573年)5月初旬には、家康が武田軍の撤退に疑問を抱き、様子見をかねて2000の兵力で駿河国岡部に攻め入り、周辺を放火している。しかし、武田軍は反応を見せなかったので、家康も信玄の死を確信しだしたという。
信長も5月中旬頃には信玄の死を確信したという。『甲陽軍鑑』には信玄の重臣・曽根昌世が信長と内通していたとすることが記録されており、また信長は武田家中のことを徹底的に調査していた。勝頼は4月23日付で重臣・内藤昌豊に所領安堵などを約束した起請文を出しており、これが信長に漏れた可能性がある。つまり、代替わりの起請文を出したことがバレたということである。