高天神城
高天神城(たかてんじんじょう)とは、現在の静岡県掛川市(旧大東町)上土方嶺向3136に存在した日本の城である。現在は城跡のみであり、国の史跡に指定されている。戦国時代に武田信玄・勝頼父子と徳川家康が攻防戦を繰り返したことで有名である。また、「高天神を制する者は遠州を制す」と評されたことでも有名である。
概要[編集]
小笠山山塊の東南に伸びた尾根の末端、標高132メートルの鶴翁山の山頂にあった城である。
この城は室町時代中期にかつては九州探題として活躍し、文化人としても著名な今川了俊が一族の今川範政に進言して築城させたという。応永23年(1416年)のことであり、了俊は遠江国における重要な拠点として築かせたという。
戦国時代の元亀2年(1571年)、甲斐国の武田信玄は2万の軍勢を率いて遠江国に攻め入り、高天神城を武田四天王の一人である内藤昌豊に攻めさせたが、徳川家康の家臣である小笠原長忠の防戦により撃退された。天正2年(1574年)5月、信玄の跡を継いだ嫡子の勝頼は再度大軍を率いて高天神城を攻め、1ヶ月にわたる攻防戦の末、小笠原を降して高天神城を奪った。『甲陽軍鑑』によると、勝頼は信玄すら落とせなかった高天神城を落としたことで傲慢になり、これが翌年の長篠の戦いにおいて織田信長・徳川家康の連合軍に武田軍が壊滅的な被害を受ける原因になったとまでいわれている。
長篠敗戦後、武田軍には以前のような勢いは無くなったものの、なおも強大であったことは事実であり、家康は高天神城を奪回するために高天神城の周囲に横須賀城や三井砦など6つの砦を築いて高天神城を完全包囲して兵糧攻めにする。当時、高天神城はかつては今川義元に仕えていた名将・岡部元信が守っていたが、岡部はかなわずとして家康に降伏を申し出るも、家康は信長の指示を受けていたために岡部の降伏を認めなかった(『信長公記』)。岡部は甲斐の勝頼に後詰を求めるが、勝頼は当時、相模国の北条氏政とも敵対しており、さらに信長とも甲江和与を画策していたために援軍を送らず、城兵は力尽きて天正9年(1581年)3月22日に斬り死に覚悟で全員打って出て岡部以下686名が悉く討死を遂げたという。勝頼が高天神城に援軍を送らなかったことは配下の国衆に勝頼に対する不信を植え付け、翌年の武田征伐で織田信長・徳川家康の連合軍が攻め入った際に武田軍が総崩れになる遠因になったという。
現在の城跡には大手門・搦手口・帯曲輪・石牢跡・土塁などが残っており、頂上には「学問の神様」で有名な菅原道真を祀る高天神社がある。
なお、この高天神城の石牢は家康の家臣で小笠原長忠の目付を務めていた大河内正局が、長忠降伏後も勝頼に屈せず、天正9年(1581年)に家康が奪回するまでの7年間、石牢に幽閉されていた場所であるという。
アクセス[編集]
- JR掛川駅北口3番乗り場から静鉄ジャストライン・掛川大東浜岡線「浜岡営業所行き」または「大東支所行き」で「土方」下車、徒歩約15分(追手門口)。
- JR掛川駅南口タクシー乗り場よりタクシーで約20分。
- 東名高速道路・掛川ICより約15分。
外部リンク[編集]
- 高天神城跡 静岡県掛川市ホームページ
- 高天神城跡 掛川観光協会
- 高天神城 武田家の盛衰を映す 朝日新聞