鉢形城
鉢形城(はちがたじょう)は、現在の埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
寄居駅の南およそ1キロ、荒川の南岸にそそり立つ断崖の上に存在した連郭式平山城である。
築城時期については不明だが、記録によると平安時代末期には既に当地の豪族によって居館が築かれていたと言われる。ただ、この居館が誰の物かは不明で、一説として清和源氏の祖である源経基、あるいは鎌倉時代に活躍した御家人の畠山重忠などの説がある。
室町時代になってから本格的な城の築城が行なわれ、整備されたのは室町時代後期に関東地方で下剋上の雄として北条早雲と共に名を連ねる長尾景春によるものと見られている。この頃から関東では武蔵国の扇谷上杉家と上野国の山内上杉家による激しい抗争が繰り返され、鉢形城は常に争奪の場となって一時的に荒廃した。その後、この両家が北条氏康の台頭によって没落すると、鉢形城は花園城主・藤田氏の持ち城となった。藤田氏は天文15年(1546年)の河越夜戦で上杉家が大敗すると、北条氏康に降伏した。そして、氏康の息子である北条氏邦を大福御前の婿養子に迎えて鉢形城を譲り、自らは花園城から退いて用土城に移った。
こうして氏邦が鉢形城主になるが、氏邦は当初は天神山城を居城にしていたとされている。永禄年間(1558年 - 1570年)に氏邦は鉢形城の大規模な改修に取り掛かり、城の背後を荒川の断崖まで拡張して守りを固め、深沢川の谷を前面の防御線とする天然の要害に成長させた。氏康時代の末期から氏邦は鉢形城を中心に安中城・松井田城・沼田城・箕輪城など武蔵国北部や上野国を束ねる後北条氏の北関東責任者として政務・軍事に当たり、上杉謙信や武田信玄・武田勝頼らと戦った。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、氏邦は3500の兵力をもって鉢形城に立て籠もって抗戦。豊臣方は上杉景勝・前田利家・真田昌幸・本多忠勝ら錚々たる面々に5万の兵力を預けて攻めさせるも、氏邦は1ヶ月にわたって耐え抜いたが、遂に6月14日になって降伏して開城。前田利家に身柄を預けられた。こうして鉢形城は廃城となった。
現在は鉢形城公園となっているが、荒川に面した丘陵の最高所には本丸跡をはじめ、笹曲輪、2の丸、3の丸など、土塁と深い堀で固めた城郭跡が現存しており、その昔をしのぶことができるようになっている。なお、この城跡は国の史跡に指定されている。
本丸跡には田山花袋の「襟帯山河好、雄視関八州、古城跡空在、一水尚東流」という五言絶句を刻んだ碑が建てられている。