1582年
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1582年(せんごひゃくはちじゅうにねん)は、1500年代の82年目のことであり、日本の元号では天正10年である。室町幕府は滅亡しているが足利義昭が名目上はなおも征夷大将軍の地位にあった。朝廷は正親町天皇である。
日本では甲斐武田氏の滅亡や本能寺の変があり、西欧ではグレゴリオ暦が始まった著名な年である。
日本の出来事[編集]
- 1月 - 織田信長が鯨肉を正親町天皇に献上する。また伊勢神宮造営費を寄進する。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠らがローマ教皇に対して天正遣欧使節を派遣する。
- 2月 - 織田信長が徳川家康や北条氏直と共に武田征伐を開始し、各地で武田勝頼軍が敗走する。
- 3月 - 織田信忠により信濃国高遠城が落とされ、城主の仁科盛信が戦死する(26歳)。武田勝頼が滝川一益に田野で追い詰められて自殺する(37歳)。武田信勝(16歳)や土屋昌恒(26歳)らも殉じ、甲斐武田氏は滅亡する。武田領が織田信長により滝川一益、森長可、河尻秀隆らに与えられる。
- 4月 - 織田信忠が甲斐国の恵林寺を焼き討ちし、快川紹喜ら僧侶らが焼殺される。
- 5月 - 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が備中高松城を水攻めし、さらに織田信長に援軍を要請する。徳川家康が穴山信君と共に安土城を訪れて織田信長の饗応を受け、さらに畿内遊覧に赴く。織田信長が明智光秀に秀吉の援軍を命じ、自らも織田信忠と共に京都に赴く。明智光秀が山城国愛宕山で連歌会を開催する。
- 6月 - 6月2日に本能寺の変が起こり、明智光秀のために織田信長(49歳)、織田信忠(26歳)が自殺する。この際に村井貞勝や森蘭丸(18歳)も殉じる。徳川家康は神君伊賀越えを行なって三河国に逃走し、穴山信君は土民に殺害される(42歳)。羽柴秀吉が毛利輝元と和睦して中国大返しを開始。和睦の条件として高松城主の清水宗治は自殺する(46歳)。明智光秀が細川藤孝らに与力を拒まれて孤立し、山崎の戦いで大返しに成功した羽柴秀吉や織田信孝•池田恒興らに敗れて逃走するも、落ち武者狩りにあって殺害される(55歳)。明智光秀の家臣・明智秀満が近江国坂本城に逃れて光秀一族と共に自殺する。同じく家臣の斎藤利三は羽柴秀吉により捕縛され処刑される。河尻秀隆が武田家旧臣の一揆により殺され(56歳)、森長可らは逃走して天正壬午の乱が開始される。滝川一益が神流川の戦いで北条氏直に敗れて伊勢国に逃亡する。清洲会議が開かれ、織田氏の後継者に三法師(後の織田秀信)が選ばれ、信長の領地が家臣に分配される。
- 8月 - 徳川家康が依田信蕃に信濃国佐久郡と諏訪郡を与える。上杉景勝が信濃国川中島など北信濃4郡を攻略する。
- 月不明 - 京都大徳寺三門が完成する。