桂林院殿
桂林院殿(けいりんいんでん、永禄7年(1564年) - 天正10年3月11日(1582年4月3日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。北条氏康の娘で北条氏政の妹。武田勝頼の継室。他の兄に北条氏親、北条氏照、北条氏邦、北条氏規らがいる。武田家では「御前様」と称された。
生涯[編集]
『小田原編年録』によると、天正5年(1577年)1月22日、武田勝頼の継室として嫁ぐ[1]。ただし『甲乱記』の記述に従うならば天正4年(1576年)となり[2]、1年の誤差が生じることになる。勝頼は最初の正室に織田信長の姪である遠山直廉の娘・竜勝院殿を迎えていたが、この竜勝院殿は元亀2年(1571年)9月16日に若死していたため、桂林院殿は後妻すなわち継室として迎えられた[3]。
天正6年(1578年)に上杉謙信が死去し、後継者をめぐり御館の乱が発生すると、勝頼は上杉景勝を支持して桂林院殿の兄弟である上杉景虎を見捨ててしまった。これにより武田家は北条家まで敵に回し危急存亡となる。
天正9年(1581年)12月、織田信長の侵攻に備えて急遽築城した新府城に勝頼と共に移った[4]。天正10年(1582年)1月27日、木曽義昌が信長に通じて離反すると、勝頼は2万の軍勢を率いて信濃に出陣し、桂林院殿は武田八幡宮に詣でて神仏に助けを求める願文を奉納したという[4]。この願文は「南無帰命頂礼八幡大菩薩」で始まり、勝頼の出陣を伝え、士卒の心がばらばらで勝頼累代重恩の輩までもが逆心義昌と心を合わせて武田の転覆を謀るとは、まさに万民の悩乱、仏法のさまたげでござりましょうと訴え、そもそも勝頼には何の悪心も無く、それだけに逆臣への怒りは深く、私も相共に悲しんで涙が止まらず、願わくば勝頼に勝利を与え、仇を四方に退けたまえと祈り、この大願が成就した暁には勝頼私共に社殿を磨きたて、廻廊を建立いたしましょうと結んでおり、勝頼へのひたむきな愛情を示している[4]。
しかし武田家重臣の寝返りが相次ぎ、勝頼は新府城に撤退。3月3日早朝には新府城に火を放って僅か700ばかりの家臣と共に重臣・小山田信茂の本拠である岩殿城を目指し、桂林院殿は多くの侍女が徒歩の中で馬に乗っていたという[5]。しかし小山田にも裏切られて進退窮まった勝頼は自害を決意し、19歳の桂林院殿には道連れにすることを忍びず、家臣の秋山紀伊守や安西有味に命じて小田原城に送り届けようとした。しかし桂林院殿は強く拒んでこう答えたという[5]。
- 「篠の一夜の情にだにも、命を捨つ、すてらるるは、いもせの中なるに、増てや申さん相馴れ参らせて、今年早七年に成と覚えたり。縦小田原へ越たり共、をくれ先立つ世の習なれば、御身は末の露と消玉はんに、身づからは本の雫と残りてもなにかはせん。元より夫婦は二世の契と申せば、渓にて共に自害して、死出の山三途の川とかやをも、直に手に手を取組て渡り、後の世までの盟をこめんこそ本意なれ(『甲乱記』)」。
そして桂林院殿は最後まで残ってくれたわずかな家臣に多くの者が逃れる中で最後まで従ってくれたことに礼を述べ、女ながら立派な自害を遂げたことを小田原に伝えるように黒髪を一束切って念仏を唱えつつ、脇差を胸に突き立てて自害した[6]。
辞世の句は「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき、思に消る露の玉の緒」。
法名は桂林院殿本渓宗光[7]。これは兄の氏規が天正11年(1583年)の没後供養の際に贈った法名である[7]。
武田家側からは天正11年(1583年)4月に京都妙心寺で勝頼の葬儀が行われた際に陽林院殿華庵妙温大姉と贈られ、さらに天正16年(1588年)に徳川家康が景徳院を建立した際に北条院殿模安妙相大禅定尼と贈られている[7]。
なお、『甲乱記』では勝頼との間に子女は無かったとされているが、次男の武田武性院と3男の武田勝親(勝三)、宮原義久に嫁いだ3女の合わせて2男1女が桂林院殿の所生と推測されている[7]。
人物像[編集]
勝頼出陣の前に出している願文を見てもわかるように、当時なら親子ほどの年齢差がある勝頼を愛していたことがわかる。『理慶尼記』では春は花を摘んで詩歌を詠み、夏は涼を求めて岩井の水に立ち寄り、秋は月光のもとで琵琶・琴など思い思いの楽器を弾き鳴らすとあり、文化的な女性だったようである。