北条氏繁
北条 康成(ほうじょう やすしげ/やすなり)/北条 氏繁(ほうじょう うじしげ、天文5年(1536年) - 天正6年(1578年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣で一族。北条綱成の嫡男。玉縄城主、後に岩槻城城代、鎌倉代官なども務めた。
生涯[編集]
仮名は善九郎。諱は最初は康成といい、これは北条氏康からの偏諱である。永禄年間前後に氏康の娘・新光院殿を正室に迎えて氏康の娘婿になった。これらは全て父の綱成が北条氏綱の娘婿になって偏諱を与えられたのと同じものである。ただ、康成の場合は母親が氏綱の娘である大頂院殿であり、正室も氏康の娘と2重の姻戚関係にあったことから、氏康の子息に準じる厚遇を受けている[1]。
永禄年間初期には陸奥国の白河氏の取次を務め、さらに上総国衆の秋元氏の家臣・東氏に対する戦功を賞して氏康へ上申する旨を約束していたりしている。永禄4年(1561年)に越後国の長尾景虎が上杉憲政を奉じて関東に侵攻してくると、綱成に変わって相模国玉縄城を守備し、さらに鎌倉の確保にも努めた。これらの活躍と戦功から、永禄10年(1567年)9月に氏康が武蔵国岩槻城を接収した際、岩槻城代に康成が任命されている。永禄12年(1569年)1月には鎌倉代官に任命された[1][2]。
また、同時期には武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破綻し、氏康は信玄に対抗するために越後国の上杉輝虎(長尾景虎・上杉政虎改め)と越相同盟を結ぼうとしていたが、この同盟交渉において康成は北条氏照と共に取次を務めており、輝虎に起請文を提出している[2]。
元亀元年(1570年)、再度岩槻城に着任し、本格的な領域支配を行なった。元亀2年(1571年)末に父・綱成が隠居したため、家督を継承する。この際、父と同じ官途である左衛門大夫を称した。さらに北条氏政から偏諱を与えられて、氏繁と改名した。これにより玉縄北条家の当主は「氏」を名乗るようになり、家格が上昇した。同時期に氏政は信玄と甲相同盟を締結し、越相同盟を破棄して再度、上杉謙信と敵対する。これにより氏繁のいる岩槻城は武蔵国羽生城や下総国関宿城に対する最前線となり、氏繁は北条軍の先鋒を務めることになる。元亀4年(1573年)2月、関宿の簗田氏が侵攻してくると、これを糟ヶ部で迎撃し、天正2年(1574年)2月から3月にかけて深谷城や羽生城を攻撃し、さらに5月には関宿城を攻撃している。10月に謙信が羽生城や関宿城の救援のために語詰して来ると、氏繁はこれを迎撃するため上野国島村に在陣した。そして、閏11月に羽生城や関宿城を攻略する軍功を挙げている。関宿城の陥落により、上杉謙信の武蔵支配はほぼ終焉を迎えたので、氏繁は氏政の命令で今度は常陸国方面の攻略に向かうように命じられ、天正3年(1575年)8月から天正4年(1576年)5月までの間に受領名を常陸守に改称している[2][3]。
天正5年(1577年)6月、下総国の結城晴朝が離反したため、7月に氏政は晴朝を攻撃し、さらに防衛の最前線である飯沼城の城代に氏繁を任命している。氏繁は飯沼城に入るとその領域支配に尽力したが、天正6年(1578年)5月頃から病に倒れた。同時期に氏政は結城晴朝の居城である結城城を攻撃し、さらにその救援にやって来た佐竹義重と絹川を挟んで対陣していたが、氏繫は病気のため従軍しておらず、代理として嫡子の北条氏舜を出陣させている[4]。
氏繁の病気は回復に向かうことは無く、間もなく死去した。没日に関しては6月13日、8月28日、10月3日の諸説があるが、「白川文書」では6月24日時点での生存が確認できるので誤りである(Wikipediaでは6月13日が没日にされているが出鱈目である)。『寛永諸家系図伝』にある10月3日の可能性が最も高いと見られている。享年43[4]。
法名は竜宝寺院殿大応宗栄大居士。あるいは竜宝院殿法空一無大居士。家督は嫡子・氏舜が継承した[4]。
系譜[編集]
- 両親
- 兄弟姉妹
- 妻妾
- 子女