武田征伐

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武田勝頼(高野山持明院蔵)

武田征伐(たけだせいばつ)とは、天正10年(1582年2月から3月にかけて行なわれた武田勝頼軍と織田信長徳川家康北条氏政連合軍による合戦。この合戦で武田家の当主・武田勝頼信勝父子が天目山において自害し、戦国大名としての武田家は滅亡した。甲州征伐(こうしゅうせいばつ)とも呼ばれる。

概要[編集]

征伐までの経緯[編集]

武田信玄の時代、織田信長や徳川家康は信玄の勢威に押されて守勢一方で、後北条氏元亀2年(1571年)10月の北条氏康亡き後は信玄との間に甲相同盟を復活させて同盟を結んでいた。しかし元亀4年(1573年)4月12日に信玄が死去。その2年後の天正3年(1575年)5月21日に行なわれた長篠の戦いで勝頼が信長・家康連合軍に大敗して信玄以来の老臣・名将の多くを失う致命的な大敗を喫したのをきっかけに武田家は急速に勢力を失う。勝頼は上杉謙信と同盟を結ぶことで頽勢を挽回しようとしたが、その謙信も天正6年(1578年)3月13日に死去。謙信の後継をめぐり上杉氏では養子の上杉景勝上杉景虎が争い、結果的に勝頼は景勝を支持して景虎を見捨ててしまった。このため景虎が自害すると、その兄にあたる氏政は甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟を結び、勝頼は西の織田、南の徳川、東の北条の3方から攻められる事態となる。

勝頼は常陸佐竹義重甲佐同盟を結んで北条氏政に対抗し、その結果上野における後北条家との戦いを優位に進めていた。しかし駿河遠江においては徳川家康・北条氏政による相遠同盟の結果、武田家の領国は挟撃される事態になっており、長篠の敗戦もあって軍事力を弱体化させていた武田軍は徳川軍に次々と遠江の拠点を奪われる事態になり、徳川軍によって駿河すら侵攻を受ける事態になっていた。勝頼は駿河田中城用宗城において徳川軍を撃退したりもするが、全体的に見るとやはり遠江戦線では徳川方が有利であった。『家忠日記』では天正8年(1580年)3月18日になると遂に武田方の遠江における最後の拠点である高天神城が徳川家康によって包囲されることになる。

この間、諸国の状況に目を転じると、武田家の同盟国である越後の上杉景勝は越中など北陸方面で織田信長の武将・柴田勝家の攻撃を受けており、また越後国内でも旧景虎派の武将がなおも景勝に抵抗していたため、上杉氏は自国の防衛に精一杯の状況で武田家に援軍を出せる余裕などなかった。また天正8年(1580年)4月9日、本願寺顕如勅命講和を受け入れて大坂を退去し、顕如の長男である本願寺教如は徹底抗戦を唱えて籠城をなおも継続するが、7月17日に大坂退去を受け入れて織田信長はほぼ近畿一帯を完全に支配下に置くことになり、勝頼は上方における同盟国を完全に失うことになった。

このような中で、天正8年(1580年)5月15日には北条氏照率いる北条軍による武田家の本国である甲斐侵攻も行なわれるなど、武田家は徐々に追い詰められていった。このような中で、勝頼は信長との関係改善に動いた。いわゆる甲江和与であったが、信長は信玄の時代に同盟を破棄された恨みが大きく、武田家を「天下静謐」を妨げる「御敵」と認定して和睦に応じようとしなかった。勝頼は織田氏との縁戚関係にある嫡子・武王丸を信勝と元服させたり、元亀3年(1572年)の岩村城の戦い捕虜にして甲斐に連れていっていた信長の5男・織田信房を信長の下に送り返すなど譲歩を見せたが、勝頼が信長と「対等な」和睦を求めたことなども信長の怒りを注いだようであり、和睦交渉は完全に失敗に終わった。

この和睦交渉の最中においても武田・徳川・北条間で戦争は続いていた。特に天正9年(1581年)に入ると、前年から徳川家康に攻められていた遠江高天神城の陥落が必至の情勢となった。城将の岡部元信は勝頼に後詰を求めるが、勝頼は援軍を送らなかった。この結果、『家忠日記』や『三河物語』によると3月22日に岡部元信以下、残った城兵は決死の覚悟で徳川軍に突撃をかけて玉砕を遂げたという。この高天神崩れは敗北が原因というより、勝頼が援軍を送らず見殺しにしたことが大問題になった。勝頼の威信は失墜し、武田家の国衆の不信を植え付ける結果になった。

武田家はますます窮地に追い込まれ、高天神落城から1ヵ月後の4月17日には北条軍による甲斐侵攻が再度行なわれている。こうして織田・徳川・北条の3方面から挟撃を受けて領国が危機的状況にある中で、従来の中世の館でしかない躑躅ヶ崎館では防衛力が十分ではないと考えて、勝頼は現在の韮崎市新府城と呼ばれる巨城の築城を開始した。『甲陽軍鑑』によると天正9年(1581年)7月から築城を開始した、としている。『武州文書』によると9月に完成し、10月に同盟国に対して周知が行なわれている。『信長公記』や『理慶尼記』によると12月24日に新府城に居城を移したという。

ただ、巨城をわずか2ヶ月で完成させたなど、余りに国衆や人民に対する負担は大きかったようである。『南松院文書』では勝頼の姉婿である穴山信君が「(新府築城は)勝頼が讒人の意見を聞いたものだ」と非難しているほどで、こうして武田家は内部からも崩壊の足音が始まっていた。

木曽義昌の離反と織田軍の侵攻[編集]

信長は既に武田家を滅ぼすことを天正9年(1581年)末には決意していたようである。『家忠日記』によると、同年12月18日に織田信長から松平家忠の下に「来年に武田征伐を行なうので、兵糧を備蓄せよ」との信長の指示が届けられたとある。

織田領から武田領に侵攻する場合、通過することになるのが木曽谷であり、ここの領主は勝頼の妹婿である木曽義昌であった。信長は東美濃苗木城主・遠山友忠友政父子に義昌調略を行なわせていたようである。いつから接触があったのかは不明であるが、『信長公記』によると天正10年(1582年)2月1日に義昌は織田信長への服属を決意し、友忠を通じて岐阜城主の信長の嫡男・織田信忠の下にその報告が届けられて木曽義昌に対する援軍を要請している[1]

武田勝頼が義昌の離反を知ったのは『甲乱記』によると1月27日であるとされ、『信長公記』には2月2日に1万5000の軍勢を集めて木曽義昌の討伐に乗り出した、とある。この際に勝頼は義昌が甲府に差し出していた人質(母・嫡男・娘)を全て処刑している。

『信長公記』『甲乱記』によると、織田信長は2月3日に武田征伐の命令を下し、嫡男の信忠率いる織田軍が同日中に木曽口(妻籠口)・岩村口に侵攻した。織田軍の侵攻で信濃伊那郡の諸城は動揺し、これから自発的開城・降伏・逃走を主とする「自落」、いわゆる「甲州崩れ」が始まった。現在の長野県平谷村にあった滝沢城は勝頼の妹婿である下条信氏が守備していたが、一門・家老から織田家への内応を促されて拒否したので追放され、2月6日に織田家の家臣・河尻秀隆により滝沢城陥落・岩村口が突破されてしまった。

悪い時には悪いことが続くのか、『晴豊公記』や『多聞院日記』では2月14日の夜に浅間山噴火して京都からも東方の空が赤く染まる様子が見え、奈良では武田が敗北する時に起きた怪異であるとのまことしやかな話が流れたという。この噴火が武田家の家臣に悪影響を与えた可能性がある。

『信長公記』によると、2月16日に武田家の家臣・今福昌和率いる軍勢が現在の長野県木祖村塩尻市における鳥居峠で木曽義昌と戦うが、織田家の援軍を得ていた木曽軍に大敗したという。なお、この際に鳥居峠は敗れた武田兵の死体が多数落ちたという言い伝えがある。

『甲乱記』によると、下伊那郡で最も重要な拠点である大島城は勝頼の叔父・武田信廉が守備しており、勝頼は小原継忠ら高遠衆を援軍として派遣していたが、大島城下の地下人(有力な町人)が織田家に寝返って大島城の一番外側の曲輪に放火したという。また、信廉は当時病気がちであったために弱気になっていたとされ、城代の日向虎頭が主張する徹底抗戦を無視して家臣により強引に馬に乗せられて夜に紛れて逃亡したという。『信長公記』によると、武田家は新しい税や賦役を賦課していたとされ、軽い罪でも厳罰に処したりしたと紹介しており、勝頼が長篠敗戦以降から再建のために行なった軍事動員や新府築城が不満になって市民の反乱に発展した可能性が高い。

相次ぐ離反[編集]

織田軍の侵攻に同調する形で徳川家康も武田領に侵攻を開始しており、『家忠日記』によると武田方の小山城を攻めた際に城兵が戦わずして逃走してしまったという。2月20日には相模の北条氏政も武田領への侵攻を開始し、2月21日に氏政の弟である北条氏邦が武田領の西上野に侵攻している。『家忠日記』ではこの頃までに家康は遠江を完全に平定し、駿河への侵攻を開始した、という。駿河はこの頃、一門衆の穴山信君と駿河先方衆の朝比奈信置によって守られていたが、穴山信君は既に家康と内通しており、『信長公記』によると2月25日に甲府にいた人質を奪い返して織田・徳川方に味方することを明らかにした。朝比奈信置は用宗城で抗戦し、徳川家臣の石川数正の降伏勧告も謝絶したが、穴山の裏切りなどで進退窮まり、『家忠日記』によると2月29日に用宗城から退去している。

この間、武田勝頼は諏訪に在陣していたが、相次ぐ敗戦と離反によって動けなかったようである。2月19日に勝頼の正室・桂林院殿(北条夫人)が勝頼の戦勝を祈ってかな書きの願文を奉納しているのが確認されている。2月20日には同盟国の越後の上杉景勝に援軍を要請しているが、当時の上杉家は越中から柴田勝家率いる織田軍に、さらにこの前年の4月から越後北部の揚北衆新発田重家に反乱を起こされてその鎮圧に追われており、武田家に援軍を派遣できる余裕は無かった。『信長公記』によると勝頼が穴山信君の離反を知ったのは2月28日とされ、これにより織田・徳川両軍に挟撃される可能性が強まったため、甲斐の新府城に帰還したという。

信濃で武田家のために最後まで徹底抗戦を貫いたのは、勝頼の異母弟である仁科盛信小山田昌成らが守る高遠城のみだったとされ、そこも3月2日に織田信忠率いる織田軍に攻められることになる。『信長公記』や『甲乱記』によると高遠城は3月2日のわずか1日の攻防戦で落城し、仁科盛信・小山田昌成・諏訪頼豊諏訪頼辰・今福昌和など武田家の主要な武将の大半が戦死したという。『信長公記』によると、この戦いにおいて総大将でありながら信忠が活躍したとされており[2]、また諏訪頼辰の妻の活躍も目覚しかったことを特記している。

また、信忠の進撃は信長の予測を遥かに上回るものであったため、信長はかえって信忠が若さのあまり血気にはやっているのではないかともたらされる報告から危惧し、信忠に付けていた老臣の滝川一益や河尻秀隆に対して以下のような書状を出している。

「城介事わかく候て、この時一人粉骨をも尽くし、名を取るべしと気色相い見え候間、毎々卒爾の儀これあるべく候」(信忠は若く、一人頑張っているが、名を気にしてあせっているように見える。くれぐれも軽率な真似をさせないようにせよ)

「城介事、これも言上のごとく、信長出馬の間は、むざとさきへ越さざるのよう、滝川と相い談じ、堅く申し聞かすべきに候」(信忠にかねて言っておいたように、信長が出陣するまで無闇に先に進まず、滝川一益と相談して、慎重に事を行なうように申し聞かせるように)
「四郎近所へは、信長その他へ御出張、大軍をもって押し詰むべきに候」(勝頼のもとへは、信長その他の軍勢も出陣するので、織田の大軍をもって押しつぶすべきである)

天目山の戦いと滅亡[編集]

詳細は「天目山の戦い」を参照

武田信勝(高野山持明院蔵)

『信長公記』によると、3月3日に武田勝頼は新府城での抗戦を断念して、小山田信茂の所領である郡内を目指して落ち延びようとした、という。この際の武田軍は大混乱し、兵は隙を見ては逃げて一勢ほども無かったという[3]。『甲陽軍鑑』においては勝頼の嫡子・信勝は新府城に籠城して抗戦し、そして切腹するべきだと主張したが勝頼は容れなかったという。

『甲陽軍鑑』によると、この時に小山田の郡内のほか、真田昌幸の上野岩櫃城への移座が検討されていたが、長坂光堅の讒言で阻止された、とされている。ただし3月12日付で真田昌幸が北条家の重臣に対して臣従する旨を報告する書状を出していることが確認され、かなり早くから昌幸は武田家を見限って北条家に鞍替えしようとしていた可能性がある。なお、小山田の郡内へ落ち延びることを主張したのは跡部勝資であったと『甲乱記』は紹介している。

勝頼は落ち延びる際、新府城を離反した国衆の人質ごと焼き払ったという。『甲乱記』によるとこの際には地下人すら逃散して人夫や馬の調達すらままならなかったという。同書によると勝頼は再起を諦めていなかったとされ、従兄弟の武田信豊を上野に派遣して再起を託したとある。『甲陽軍鑑』によると勝頼はまず甲府にある一条信龍の屋敷に入ったが、既に甲府の城下町は地下人によって焼き払われ、市民は穴山領など他領に逃亡していたという。

勝頼一行は郡内を目指し、途上の柏尾(現在の甲州市)で親類衆・今井氏の姻戚である理慶尼に迎えられ、3月4日に笹子峠の手前に当たる駒飼峠に入った。『甲陽軍鑑』『信長公記』によると、ここで小山田信茂の迎えを待っていたが、小山田信茂は従兄弟で家臣の小山田八左衛門尉を送ってまず信茂の人質である老母を引き取りたいと申し出て、その後に笹子峠を封鎖して勝頼一行の受け入れを拒絶したという[4]。この間に500人から600人はいた兵士も次々と逃亡し、41人までに激減していたと伝わっている[5]

行き場を失った勝頼はさすがにここで覚悟を決めたようで、『甲乱記』によると同行していた麟岳(信廉の息子)に一族の菩提を弔って欲しいので落ち延びて欲しいと求めたという。しかし麟岳は武田家一門として謝絶し、跡部勝資が天目山に入って地下人を糾合して最後の抗戦をしようと進言したとある。同書では同じく武田家重臣の土屋昌恒が勝頼に対して「新府城で抗戦して切腹すべきであった」と批判する意見を述べたという。また、勝頼は正室の桂林院殿に実家である小田原城への帰国を説得したが、彼女は拒否して勝頼と運命を共にする覚悟を決めていたという。

『信長公記』によると3月7日に織田信忠は甲府に入り、武田家の家臣は先を争って織田家に投降していったと伝わる[6]。3月11日、『信長公記』によると織田家臣の滝川一益の軍勢に補足された勝頼一行は、桂林院殿をはじめとする女子供を刺し殺し、切って出て討ち死にを遂げたという。『甲乱記』では自害した、と伝わっているが、この際に桂林院殿が小田原に自らの最期の様子を伝えて欲しいと求めて家臣のうち3名を小田原に落ち延びさせた、とある。勝頼・信勝父子の死去により、戦国大名としての甲斐武田家は滅亡した。なお、『甲乱記』では勝頼が腹を十文字に掻き切り、はらわたを掴んで四方に投げつけるという凄まじい最期であったことを記録している。

甲斐国内に入った織田信忠らは、ただちに信長の代官としての行動を開始した。『信長公記』巻十五には、織田軍が武田家家臣を探し出し、捕まえた者や降伏してきた者を皆殺しにしたことが書かれている。

戦後処理[編集]

武田家滅亡後、信長により戦後処理が行われ、武田家の本国・甲斐国は河尻秀隆に、駿河国は徳川家康[7]に、上野国は滝川一益に与えられた。信濃は分割され、東信は滝川一益、南信は河尻秀隆と毛利長秀に、西信は木曽義昌に、北信は森長可にそれぞれ与えられた。

この武田征伐は信長ではなく、信忠により総指揮がとられた戦いであった。なぜなら信長は勝頼が自害した3月11日の時点ではまだ美濃国岩村城に滞在しており、信濃国にすら入国していなかった。そのため、信長の後継者である信忠の実力と力量が示された戦いでもあったといえる。信長は3月19日に諏訪に着陣し、ここで戦後処理として知行割のほか、旧武田領において国掟を制定。4月2日に諏訪を発ち、甲府を経由して駿河国に出て、富士山見物をして徳川領の東海道をゆっくり西に向かい、4月21日に近江国安土城に凱旋している。

しかし、わずか2ヶ月後の6月2日に本能寺の変が起こり、これに乗じた武田家遺臣による反乱と、周辺諸大名による所領争奪争いにより、滝川や毛利、森らは信長の後ろ盾を得て支配に乗り出したばかりだったためにその体制は不完全であったために敗走し、河尻は抵抗するも討ち取られた。そして、この混乱に乗じて甲斐・南信はほぼ徳川領に、北信は上杉領に、上野国は北条領になった。徳川家康は武田遣臣[8]を多く抱えることとなり、武田の赤備えなどが受け継がれた。

勝頼・信勝と共に自害した人物[編集]

勝頼と共に自害した人物に関しては史料により異なる場合が多いので、些か異なる場合がある。

このうち、重臣の長坂光堅秋山昌成は勝頼の下から逃亡したとされており、後に織田軍の追跡を受けて処刑されている。自殺した面々の名前が混乱している理由として、織田家による首のリストの作り間違い、武田家が天正7年(1579年)から翌年にかけての官途・受領名の大規模な変更をしているため、織田家が親子関係などを誤っていた可能性があるという。

武田征伐で織田軍に誅殺された武田家臣団[編集]

甲州安見記』から参考にしている。括弧内は殺害された場所。

なお、跡部勝資や高坂昌澄(源五郎・信州川中島)も織田軍に誅殺されたことになっているが、跡部は勝頼と天目山で運命を共にしているし、高坂は長篠の戦いで戦死しており、誤記も見える。

脚注[編集]

  1. 「二月朔日、信州、木曾義政、御身方の色を立てられ候」(『信長公記』)
  2. 「中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争って塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、一旦に乗り入るべきとの旨、御下知の間、我劣らじと御小姓衆、御馬廻り、(高遠)城内へ乗り入れ」(『信長公記』)
  3. 「新府在地の上下一門、家老の衆、軍の行は一切これなく、面々の足弱子供、引越し候にとり紛れ、癈忘致し、取る物も取り致へず、四郎勝頼の旗本に人数、一勢もこれなし」(『信長公記』)
  4. 「(勝頼一行が)漸く、小山田が館、程近くなりしところに(小山田が)内々、肯じ(承諾)候て、(勝頼を)呼び寄せ、爰にて無情無下につき堕し、拘(係)へがたきの由、申し来たり。上下の者、はたと十方を失ひ、難儀なり」(『信長公記』)
  5. 「新府を出でられ候時、侍分五、六百も候ひき、路次すがら引き散らし、遁れざる者、纔か四十一人になるなり」(『信長公記』)
  6. 「三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪より甲府に至りて御入国。武田四郎勝頼一門、親類、家老の者、尋ね捜して悉く御成敗」(『信長公記』)
  7. 北条氏が一部を占領していたが、北条氏の占領地も家康に与えられた。
  8. 後の側用人柳沢吉保の祖先も旧武田家臣。

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六平山優 『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03424-3