小田原評定
小田原評定(おだわらひょうじょう)とは、会議が長引いて結論がなかなか出ず、いつまでも無為に相談を繰り返すことの例えである。
概要[編集]
元々は、後北条氏支配下での月2回の重臣会議のことだった。
この言葉は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏政を中心とした後北条氏の一族・家臣団が小田原城内でいつまでも評定を続けてなかなか結論を出そうとしなかったことから例えが広まったと伝えられている。
意味が転じた経緯[編集]
天正18年(1590年)になると、豊臣秀吉と北条氏政・氏直父子の関係は完全に破綻し、秀吉は後北条家を討伐することを決定した。後北条氏では同年1月、秀吉との対決をどうするかで評定を開いていた。これは後北条家で月に2回ずつの定例会議であり、秀吉との戦いに当たってどのように戦うかを話し合うものであったという。この際、氏政の弟の氏邦など一部の家臣が、打って出て野戦で秀吉と決着をつける積極策を、氏政や松田憲秀などの大多数が小田原城を中心にして関東の諸城で籠城戦を展開し、秀吉方の疲弊を待って戦うという持久戦を主張したとされ、氏政が唱える持久策で最終的に決着したという。これはかつて、上杉謙信や武田信玄の軍勢を永禄4年(1561年)と永禄12年(1569年)に撃退していたこと、当時後北条家と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗、そして婚姻関係にある徳川家康などが味方するという希望的観測もあったと見られている。
しかし秀吉は氏政らが想像する以上の物量を持って後北条家を追い詰める。小田原籠城は3ヶ月に及んだが、この際も後北条家は評定を繰り返していた。ただし、これは野戦か籠城かではなく、既に勝敗を悟って降伏するか、死を覚悟して徹底抗戦するかであった。結局、3ヶ月間の籠城の末に、氏直は開城して秀吉に降伏した。
この戦いで、戦国大名として関八州を支配した後北条家は滅亡し、その後河内国で1万石の大名となった。
この際の小田原城における評定が、いつからか別の意味として使われるようになったとされている。