千葉直重

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千葉 直重(ちば なおしげ、? - 寛永4年3月1日1627年4月16日))は、戦国時代から安土桃山時代武将後北条氏の一族で千葉氏養子となった人物である。

生涯[編集]

父は北条氏政で5男。母は武田信玄の娘・黄梅院とされていたが、生年が通説の永禄9年(1566年)ではなく『堀尾古記』から天正元年(1573年)の可能性があり、そうなると黄梅院では無い可能性がある。

兄弟姉妹に北条新九郎北条氏直太田源五郎太田氏房北条直定北条源蔵北条勝千代芳桂院殿千葉邦胤室)、竜寿院殿里見義頼正室)、庭田重貞室らがいる。

元服の時期は不明であるが、仮名は七郎を称している[1]。直重の名は後北条家の第5代当主となった兄・氏直からの偏諱と推測され、史料上の初見は仮名が天正17年(1589年)4月で、名は同年8月となる[1]。当初は叔父・北条氏照の養子となったが、天正13年(1585年)5月に下総佐倉城主・千葉邦胤が死去したため、邦胤の娘(千葉直重夫人)を娶って婿養子となって千葉氏の家督を継承した[1]。しかし若年の直重に千葉氏の家中は統率できず、親北条派と反北条派に分かれて分裂し、親北条派である千葉氏の家臣・原胤長は北条氏直に援軍を要請し、11月に氏直は佐倉城に出陣し、その近くに鹿島城を築城して千葉邦胤の母とその娘を入城させ、軍事的圧力をもって反北条派の原親幹らを屈服させている[1]

なお、直重は若年であるため、千葉家の政務は実父の氏政が管轄し、直重の正式な家督相続は天正17年(1589年)8月にようやく行なわれている[2]。なお、正室に迎えた邦胤の娘は直重の姉である芳桂院の娘である[2]。つまり、直重は姪と結婚したことになる[2]

天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐が行われた際、直重は後北条家の居城である小田原城籠城し、水尾口の守備を担当した[2]。小田原開城後は兄の氏直に従って高野山に隠棲するが、後に秀吉に赦免され、阿波蜂須賀家政に仕官して500石の知行を与えられた[2]。蜂須賀家政に仕えた正確な年代は不明であるが、文禄4年(1595年)までには仕えていたようで、しかも記録には「北条七郎入道殿様」とあることから、北条に復姓して剃髪していたようである(『京大坂之御道者之賦日記』)。慶長2年(1597年)の『蜂須賀家分限帳』に500石の知行を得ていたことが記録されている。

寛永4年(1627年)3月1日に死去した[2]。55歳没の可能性がある[2]。法名は即室謙入大居士[2]

直重は最初の妻である邦胤の娘とは時期不明だが離婚していたようで、蜂須賀家に仕えてからその家臣の市原如雪の妹を後妻に迎え、1男1女を得ている[3]。しかし実子の十三郎は早世したため継嗣を失った直重は、蜂須賀家の重臣・益田典正の3男を自らの娘の婿養子に迎えて北条重昌と名乗らせた[3]。直重の死後はこの重昌が家督を継承し、直重の家系は幕末まで存続した[3][4]

脚注[編集]

  1. a b c d 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P118
  2. a b c d e f g h 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P119
  3. a b c 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P120
  4. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P121

参考文献[編集]

外部リンク[編集]