大道寺政繁

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大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ、天文2年(1533年) - 天正18年7月19日1590年8月18日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。子に直繁直昌直次重利。養子に直英

生涯[編集]

父は大道寺資親嫡男[1]。資親は大道寺盛昌の子なので、政繁は盛昌の孫に当たる。Wikipediaで父とされている大道寺重興は伯父に当たる。受領名は駿河守。

父の資親が永禄13年(1570年)3月21日に死去したため、家督を相続した。史料上でも資親の終見は永禄12年(1569年)12月で、政繁の史料上の初見は元亀元年(1570年)8月なので、間違いないと思われる。当初から受領名は駿河守であった[1]の政繁は北条氏政からの偏諱と思われる。

氏政に仕えて鎌倉代官河越城代などを歴任した。天正元年(1573年)には河越城や岩槻城に在城し、上杉謙信に対抗する役割を果たしている[1][2]

天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こって織田信長が死去し、その後に天正壬午の乱が起きると、後北条家の上野国進出に従い、9月から上野西部の松井田城の管轄を務め、同城には次男の大道寺直昌が在城している。11月には信濃国小諸城在番を務めた。天正壬午の乱では徳川家康と旧武田領の奪い合いを演じ、政繁は最前線の小諸城を任されていたが、天正11年(1583年)8月に家康と北条氏直との間で婚姻を通じた和睦・同盟が成立すると、小諸城は家康に割譲された[2]

天正15年(1587年)8月、上野惣社領も管轄するようになっている[2]

天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、政繁は次男の直昌と共に松井田城に籠城し、河越城には養子の直英を籠城させて守りを固めさせた。嫡男の直繁は後北条家の居城である小田原城に詰めさせている。しかし、上野攻略を担当する上杉景勝前田利家真田昌幸らの豊臣軍に攻められ、松井田城を開城して降伏した。以後、豊臣軍の道案内を務めて先導役を果たした[2]

しかし、小田原開城後に秀吉から小田原征伐の開戦責任を追及されて自害を余儀なくされた[2]享年58。

法名は松雲院殿江月常清大居士[2]

脚注[編集]

  1. a b c 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P209
  2. a b c d e f 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P210

演じた俳優[編集]

テレビドラマ

参考文献[編集]