寿桂尼
寿桂尼(じゅけいに、? - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名・今川氏親の正室。名は不詳で寿桂尼とは法名である。今川家中では「大方殿」(おおかたどの)とも呼ばれていた。
生涯[編集]
藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言・中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川彦五郎、今川義元、瑞渓院(北条氏康正室)、その他女子2人などがいる。
今川氏親に嫁いだ正確な年代は不詳で、永正2年(1505年)か永正5年(1508年)と見られている。氏親との間には3人の男子と3人の女子に恵まれている。氏親は死去する10年ほど前から中風に倒れてまともな政務判断をするのが難しくなっていたとされており、そのため実際に政務を判断していたのは寿桂尼であったと見られている。大永6年(1526年)4月に分国法である今川仮名目録の制定にも関与する。同年の6月に氏親が病死すると、自身が産んだ嫡男の氏輝が家督を相続することになるが、氏親はこの時点でまだ14歳の少年だったため、寿桂尼が2年間の期限付きで引き続いて国政を執った。氏輝が成長した後もある程度の影響力は保持していたと見られている。
天文5年3月17日(1536年4月7日)に氏輝が死去。氏輝は病弱だったことから、万一の際に代理当主と決められていた彦五郎まで同時に死去するという奇怪な事態が発生する。寿桂尼は自身が産んだ男子では末子にあたる義元を新たな後継者候補に擁して反対派の家臣が擁した幻広恵探と対立し、花倉の乱を制して寿桂尼は義元の後継を確立した。
義元の時代に今川氏は黄金時代となり全盛期を謳歌するが、その時代も永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元が織田信長に敗れて戦死することで終焉。以後、今川家は衰退するが、寿桂尼は義元の嫡子・氏真を擁して自らはその後見人となる。以後、今川家では松平元康の離反や遠州錯乱と称される今川家臣の内訌、さらに同盟者でありながら衰退する今川家を見て駿河に矛先を向けんとする武田信玄の圧力などに苦しめられるが、寿桂尼は衰退する今川家を娘婿の北条氏康と連携しながら必死に守り立てている。このため、寿桂尼の存命中は武田信玄も今川家に手を出すことができなかった。
永禄11年(1568年)3月14日、駿府にて死去した。享年は不明だが、氏親に嫁いでいたことなどから80歳前後の高齢であったと見られている。死の寸前、寿桂尼は「死後も今川の守護たるべし」と述べて、自らの遺体を駿府の鬼門に当たる方角に葬るように遺命したという。
だがその願いもむなしく、寿桂尼の死からわずか9ヵ月後の12月、武田信玄が駿河侵攻を開始して今川氏真は敗れて駿府から逃亡し、これにより戦国大名としての今川家は滅亡することになった。
人物像[編集]
氏親・氏輝・義元・氏真の4代にわたり政務に関与し、義元を除く3名の時代には実際に政務を動かしていたことなど、戦国大名と変わらない立場にあったことなどから史上唯一の「女戦国大名」とまで称されている。
寿桂尼が用いた印鑑の文字は「帰」である。故郷である京都ではない遠い駿河に嫁ぐという意味で、嫁ぎ先に骨を埋める決意を示したものだとされている。一方で「かえる」すなわち「帰安」「帰寧」という嫁いだ女性が実家に帰って父母の安否を尋ねるという単語もあり、寿桂尼はこの「帰」の字の両面の意味を知った上で使用していた可能性がある。なお、今川家には兄や甥などが世話になっているが、寿桂尼自身は父母とは再会することはなかったという。