義信事件

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義信事件(よしのぶじけん)とは、永禄8年(1565年10月に発生した甲斐戦国大名武田氏の内紛未遂事件である。この事件で武田信玄嫡子である武田義信廃嫡され、義信の家臣団が粛清されるなど武田家内部に大きな亀裂や影響を残し、後年における武田家衰退、滅亡の原因のひとつになったと指摘される場合もある。

概要[編集]

前段階[編集]

武田信玄像。

甲陽軍鑑』によると、武田信玄とその嫡子である義信の関係は必ずしも良好なものでは無かったという。義信は武田氏の同盟者である駿河今川義元の娘・嶺松院結婚しており、その関係から今川氏との同盟関係を特に重要視していた。『甲陽軍鑑』によると信玄と義信の関係が悪化したのは桶狭間の戦い後とされているが、実際は今川義元の存命中から不仲だったようである。

天文24年(1555年7月16日付の信玄自筆の書状(宛名不明)によると、次のようにある。

自筆で密書をお送りします。そもそも義信のことですが、今川殿のために晴信と父子の関係にあることを忘れています。晴信は五郎殿にとって伯父(叔父の間違いか?)にあたります。さらに長窪以来、現在に至るまで、今川への軍事支援を行なってきました。何回も懇切丁寧な対応をしてきたにも関わらず、このように等閑にされてはどうしようもありません。疎遠に見えて不信だというのですから、今度井上が帰国した時に直談判したいと思います。その際、北条氏康から越中衆の国分と和睦調停についてしかるべきようにやって欲しいと言われたとのことですね。どんなに工夫しても過ぎることはありません。ただこちらにては和睦調停は敢えてやらずにおりますので、その点を心得ておいて下さい。そのため、糊で封印した書状でお伝えします。

この書状によると、義信はかなり早い段階から父の晴信に対して今川義元への支援不足を訴えて、そのために父子関係に亀裂が生じていたと見られている。

また、晴信も今川義元の存命中から今川氏にとっては宿敵の間柄である織田信長と関係を深めていたことが確認されている。天文23年(1554年)の段階で晴信が南信濃を制圧した結果、東美濃の国衆である遠山氏が晴信に服属を申し出ていた。遠山氏は織田氏とも縁戚関係にあり、そのため織田信長ともかなり親しい関係にあり、いわば遠山氏は織田・武田に両属することになったのである。当時、晴信は越後長尾景虎と敵対していたため、東美濃での戦争は避けたいため、織田信長とも友好関係を築く道を選んだ。永禄元年(1558年11月23日付の信長書状では武田氏の家臣で伊那郡代であった秋山虎繁(秋山信友)に陣中見舞いの礼と大鷹を送ってほしいと所望する内容であり、既に信長と晴信との間でかなりの友好関係が築かれていたことがうかがえる。このため、今川義元をはじめとする今川家中に武田氏に対して不信感が存在していた可能性が指摘されている。

武田勝頼

永禄3年(1560年5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長の前に敗死を遂げる。今川氏の家督は義元の嫡子・氏真が継承したが、義元の戦死でそれまで服属していた三河岡崎城主・松平元康が独立し、さらに遠江においては今川家臣団による騒乱、いわゆる遠州騒乱が勃発して今川領は大混乱となった。晴信を改め信玄は今川氏のこのような混乱を見て、当初は今川氏の支援を承諾していたにも関わらず、考えを改めて今川氏の領土を奪うことを計画し始めたという。『佐野家蔵文書』によると遠州騒乱で氏真が苦戦しているのを知った信玄は、今川氏の取次を務めていた穴山信君の家臣に密使を送り、遠江の情勢を探るように命令し、もし氏真が敗れるようなことがあれば駿河侵攻を行なうという考えを示したという。

また『甲陽軍鑑』によると、永禄8年(1565年9月に織田信長との同盟交渉が開始されたという。これは東美濃で両属していた遠山氏の処遇をめぐり、織田と武田との間で偶発的な紛争が起きたためとされているが、この同盟交渉はスピード交渉でまとまり、11月には信玄の4男・勝頼が信長の姪で養女(遠山直廉の娘)である龍勝院結婚するという婚姻同盟の形でまとまっている。

親今川で今川氏との同盟を重要視する義信にとって、織田氏との同盟は到底許容できるものではなかった。信玄は義信との関係を保つため、室町幕府の第13代征夷大将軍足利義輝と交渉して義信に准三管領待遇という異例の恩典を貰ったりしている(『大館文書』)。しかし『甲陽軍鑑』によると永禄5年(1562年)に異母弟である勝頼が信濃高遠城主に任命されたことに強い不満を示したとあり、信玄と義信の関係は相変わらず不仲なままだったようである。また偶然であるとは思うが、実は三国同盟のそれぞれの嫡子である義信・氏真・北条氏政らはいずれも天文7年(1538年)生まれだったのである。このうち、氏真と氏政は永禄2年(1559年)にいずれも父が隠居して家督相続して当主に就任しており[1]、義信にとっては形式的とはいえ当主の地位を与えられていないことに不満を抱いていた可能性が指摘されている。

つまり親今川氏の義信にとっては、今川氏との利益にそわない外交政策や当主の形式的な譲渡などが行なわれなかったことが、信玄への不満として上がっていた可能性がある。

義信事件[編集]

義信は織田氏との同盟が纏まる前に家臣である飯富虎昌[2]長坂勝繁曽根周防守らと謀反を計画したと『甲陽軍鑑』には記されている。同書によると今川氏の取次を務めていた穴山信君の家臣とも親しい間柄にあったという。義信は長坂・曽根らと談合を重ね、灯篭見物と称して永禄7年(1564年7月15日に密かに飯富虎昌の屋敷を訪問したという[3]。この訪問に信玄配下の目付と横目が気づいて信玄に報告した。さらに虎昌の弟とされる[4]飯富昌景が義信家臣と虎昌の密会について密告に及び、証拠として義信の書状を差し出したという。信玄は涙を流して兄・虎昌の謀反を訴え出た忠義を讃えたという。ただ『甲陽軍鑑』によると、義信らは戦場において裏切ることで謀反を計画していたなど辻褄が怪しい部分がある。

とはいえ、こうして義信とその一派によるクーデター計画は露見し、永禄8年(1565年)10月15日に虎昌は捕縛されて切腹させられている。同年10月23日付で信玄が上野小幡氏の一門である小幡源五郎に宛てた書状では「飯富虎昌の所行により、信玄と義信の間を妨げる陰謀が露見したので、虎昌を処断した。信玄・義信父子の関係は、もともと何の関係も無いので、安心してほしい」とある。

さらに『甲陽軍鑑』によると、長坂勝繁と曽根周防守も謀反の罪で処刑された。義信の家臣団80騎余りも処刑され、残りの者は追放された。義信は甲斐の東光寺に幽閉処分にされた。永禄9年(1566年12月5日には義信との共謀があったとして、穴山信君の弟である穴山信嘉自害させられている。

事件の影響[編集]

信玄は義信との関係を修復することを当初は考えていたとされ、永禄9年(1566年恵林寺快川紹喜長禅寺春国光新、東光寺の藍田恵青臨済宗高僧を仲介人として義信との和解を目論んでいたという。しかし事態は好転しなかった。

このため、追放した義信の家臣の帰参を許したり[5]している。だがそれでも事態は好転せず、永禄10年(1567年10月19日に義信は30歳で死去した。『甲陽軍鑑』によると死因は「御自害」あるいは「病死」の両説が挙げられている。

この事件で信玄は跡継ぎである嫡子を失い、さらに家中に大きな動揺を与えることになった。信玄は家中の動揺を抑えるため、永禄9年(1566年)と永禄10年(1567年)のいずれも8月に家臣団に対して自身に忠誠を誓わせる起請文を書かせて提出させている。さらに信玄は新たな嫡子として4男の勝頼を立てて世継とした[6]

この事件により事実上、今川氏と武田氏の同盟関係は破綻した。永禄11年(1568年、今川氏真は義信に嫁いでいた自分の妹である嶺松院の返還を求めた。しかし信玄はこの返還に消極的でなかなか応じず[7]、氏真は同じく同盟者である北条氏康を中人(仲介者)に立てて改めて返還を求めた。これに対して信玄は「氏真が同盟を守るという起請文を書かなければ受け入れがたい」と条件を出し、氏真はやむを得ず要求に応じて起請文を出した上で嶺松院を取り戻している。

こうして完全に今川氏と武田氏の関係が決裂すると、氏真は信玄に対抗するため越後の上杉輝虎に「信玄表裏(裏切り)は程あるまじき」という書状を出して、越駿同盟の締結と軍事支援を求めた。そして同年12月6日に武田信玄は今川氏真の駿河に対する駿河侵攻を開始し、戦国大名としての今川氏はここに滅亡し、旧今川領をめぐって武田・徳川・後北条氏の三者の間で抗争が繰り広げられていくことになるのである。

脚注[編集]

  1. ただし実権はいずれも譲渡されていない。
  2. 義信の守役と通説では言われているが、『甲陽軍鑑』にはその記録は無い。ただし義信の具足始めや介添役を務めたことは確認されており、親しい関係にあった可能性はある。
  3. 永禄8年(1565年)の誤りの可能性あり。
  4. 叔父とする説がある。
  5. 『甲陽軍鑑』には雨宮十兵衛という義信の家臣が武功に優れていたため、高坂昌信の取り成しで帰参を許されたとしている。
  6. 『甲陽軍鑑』では義信の死から1ヵ月後に産まれた勝頼の長男・信勝が信玄より世継に指名されたとしている。
  7. 今川氏に対する人質の意味合いがある。

参考文献[編集]