三増峠の戦い
三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)は、1569年(永禄12年)10月6日から10月8日にかけて起きた、甲斐国の武田信玄と相模国の北条氏康・氏政父子との間の戦いである。戦国時代最大の山岳戦と言われる。三増峠は現在の神奈川県愛甲郡愛川町と相模原市緑区の境界にある標高317メートルの峠である。武田側と北条側のどちらの軍も自軍が勝ったと主張しているので、勝敗は明らかでない。
戦いの経過[編集]
戦いまでの経緯[編集]
1560年(永禄3年)5月19日の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏は急速に衰退する。これを見た甲斐国の武田信玄は、第4次川中島の戦いにおいて上杉政虎との戦いにほぼ決着をつけ、その食指を南の駿河国に向けるようになる。これに対して義元の娘婿にあたる信玄の嫡男・武田義信が反対して父子対立となるが、信玄は義信を幽閉(のち自殺あるいは病死)、さらに義信付の家臣の飯富虎昌らを粛清して武田家中における親今川派を消滅させた(義信事件)。
そして1568年(永禄11年)12月、信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始する。これに対して義元の後継者である今川氏真は迎撃するが敗れて、家臣の朝比奈泰朝が守る遠江国掛川城に落ち延びて、駿河は信玄の手に落ちた。この氏真の落去の際、氏真の正室、すなわち北条氏康の娘である早川殿は裸足で逃げ出す苦難を味わうことになった。これを知った氏康は、信玄の同盟破棄を合わせて激怒し信玄に対して宣戦布告。それまで後北条家と敵対していた上杉輝虎との間に越相同盟を締結して信玄に対抗した。
一方、信玄は駿河を制圧した後、事前に織田信長を通じて三河国の徳川家康との間に今川領の分割を約していたにも関わらず、約束の境界線であった大井川を越えて秋山信友に遠江国を攻めさせた。これは家康の抗議によって信玄は兵を退いたが、これにより家康は信玄に不信を抱き、永禄12年(1569年)5月に掛川城の今川氏真と和睦し、氏真は氏康に引き取られて伊豆国に落去した。そして、家康と氏康は信玄に対抗するために同盟を結んだ。この際、氏康は氏真の猶子に孫の氏直を迎えさせており、名目上駿河の守護職が氏直に譲られたことになった。
こうして、上杉輝虎・北条氏康・徳川家康の3強に北・東・西から攻められるようになった信玄はいったん占領した駿河国を放棄して撤退せざるを得なくなる。そして、まずは北条を叩こうと計画した。
小田原城[編集]
詳細は「武田信玄の小田原攻め」を参照
1569年(永禄12年)8月24日、武田信玄は甲府を出発し、上野国方面から関東に侵攻して2万の軍勢で北条氏康の小田原城を囲んだ。北条勢は武田勢の到着より前に近隣の村から農民を徴兵して城内に入れ、総勢20,000で籠城作戦を取る。当時、城には北条氏康、北条氏政親子が守っていた。信玄は蓮池門をあっさりと突破したが、これは北条の罠であった。その先は行き止まりで、先手は左右の曲輪から矢を射られて武田方は壊滅的な損害を受けた。武田は兵站の問題があるため、長期戦は不利として、信玄は3日後[1]の10月4日に撤退を開始する。
三増峠到着まで [編集]
信玄は田村・大上に陣取り、鎌倉鶴岡に社参するとの噂を流し途中鎌倉に向うと見せかけて北条方を撹乱する。武田勢は平塚まで進んだところで相模川を渡らず、方向転換し北上する。金田・妻田で一泊し、津久井経由で甲斐に向かう。信玄の撤退ルートにあたる三増峠では、前方に北条氏康の命で北条氏照の滝山城、北条氏邦の鉢形城、北条綱成の玉縄城の兵に加え、江戸城、小机城、から集めた約2万の軍が待ち構えていた。後方からは北条氏政率いる北条勢の主力である北条本隊が小田原城を出て追撃を開始し、挟み撃ちを狙っていた。北条氏照らは三増峠の中里・上宿・下宿村に陣をとり、高所を取る有利な陣形で武田軍を待ち構えていた。両軍合計3万から4万が激突する戦国時代でも最大規模の山岳戦となった。
本格的な戦闘になる前は、北条側が峠の上に布陣していたが、10月5日の夜に北条氏照は三増峠から台地の方へ退き態勢を整え、武田側と対陣しようとして相模川西岸の三増宿、道場原、志田原に布陣した。武田軍は全軍を3隊に分け、左翼隊として1,200の兵を津久井城に向かわせた。これに小幡重貞、土地勘のある加藤景忠や上野原七騎が加わった。金原に武田の大軍が集結していると見せかけた。中央隊には主力として馬場信房、武田勝頼、浅利信種、内藤昌豊が率いる小荷駄隊を配置した。山県昌景を中心とした真田信綱・真田昌輝兄弟ら残りの左翼隊5000は志田峠を越え、長竹へ向かう。右翼隊には武田信玄とその旗本を配置した。武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的として、小幡憲重&小幡信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。これにより津久井城の兵は動けなかった。
三増合戦[編集]
北条側は武田側の一部が甲斐方面へ向かうのを見て、武田は退却したと考え、1569年10月6日には残らず討ち取れとばかりに攻めたてた。10月6日早朝[2]、浅利信種は北条綱成の鉄砲隊に討たれて10月6日に戦死した。武田軍は金田・田村(厚木市)・大神(平塚市)に着陣し、北条氏照に応戦した。当初は北条勢が有利に戦を進めていたが、山県昌景ら5,000の兵が志田峠から戻ったため、突然に横を突かれた北条側は大混乱し敗走した。結果的に見晴らしのよい三増峠の高所を信玄がとったため、信玄が有利な形勢となった。小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は戦場まで約6kmの荻野(厚木市)まで迫っていたが、開戦には間に合わなかった。武田の小荷駄が戦場に残されていたことから、武田側は慌てて帰路に就いた様子が伺える。武田軍は急いで甲斐に撤退した。津久井城の内藤景豊は、城からも見える三増峠へは援軍を出せず、武田軍は素通りとなった。
双方の損害と勝利宣言[編集]
『甲陽軍鑑』によれば北条の戦死は3,269名と言われる。武田側の戦死者数は900であった[3]。武田軍は譜代家老の浅利信種が討ち死にするなどの損害が出ている。『北条五代記』では武田側損害を1,000名、北条側損害を軽微としている。氏政は追撃を諦め、小田原城へと引き返した。武田側は大部分が甲斐へ帰ることができ、北条側は戦利品を得ることができたため、双方が勝利を宣言した[4]。
山伏の参戦[編集]
三増峠の戦い後、武田勢の一隊の退路の途中で、日向薬師の山伏100人程度の手勢が、北条氏の日頃の寄進の恩に報いるため、青根で待ち伏せし急襲した。しかし奮戦むなしく、勝快法印を始め多くが討死にしたと言われる。現在、「法印の首塚」があり、青根の諏訪神社には山伏たちを祭った八幡宮がある[5]。
勝敗の評価[編集]
武田の全面勝利との評価もあるが、そうと言いにくい要素もある。残されている史料が少なく、引き分けとも言われ、双方致命的な結果ではないので勝敗は不明といえる。個々の戦闘では武田軍の機動的な作戦が功を奏していたが、挟み撃ちが実現していれば、北条が大勝利となる可能性もあった。
史跡三増合戦場の碑[編集]
峠上に1969年(昭和44年)に合戦400年を記念して愛川町が建てた記念碑がある。
- 住所:神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3
- アクセス:小田急本厚木駅から上三増行きバスで、三増バス停下車徒歩で15分
- 圏央道相模原ICから津久井広域道路を経て、県道65号(厚木愛川津久井線)で約15分
相州三増両合戦之図[編集]
1569年(永禄12年)における武田信玄と北条氏の三増峠の戦いの絵図
- 相州三増両合戦之図[6]
三増合戦まつり[編集]
三増合戦まつりは2000年(平成12年)から慰霊祭と合わせて「三増合戦まつり」を行っている。手づくりの甲冑、縅、馬上舞武芸を行いながら、パレードを行う[7]。
後日談[編集]
三増峠の戦いで損害を出した北条氏康は、駿河に駐屯させていた北条軍の大部分を相模国の守備に戻している。このため、駿河に残留する北条軍の兵力は少なくなり、この隙を突いて武田信玄は2ヵ月後の1569年(永禄12年)12月に駿河国蒲原城に来襲し、蒲原城の戦いが起こる。1569年(永禄12年)12月5日夜から12月6日の朝に武田勝頼・武田信豊・真田幸隆・真田信綱らが猛攻した。北条勢の北条綱重(北条氏信)と北条長順は約1,000の兵と共に討死し、蒲原城は同年12月6日に落城した。北条氏の城主の北条新三郎に加え、清水氏や笠原氏など重臣多数が戦死した。信玄は吹上の六本松(清水区)で首実検をしたとされる。信玄は、城周辺地域の在地領主を編成して「蒲原衆」として城の守りにつかせた。
テレビ番組[編集]
2021年7月14日放送の NHK BSプレミアム「英雄たちの選択」で「戦国最大の山岳戦・三増峠の戦い〜北条氏康VS.武田信玄〜」で攻防戦を紹介した。[8]「挟み撃ちをしかける氏康と裏をかく信玄。名将二人の知恵比べ」として、実際に三増峠を歩きながら、戦場となった現地を訪れ、実地検証した。