北条氏規
北条 氏規(ほうじょう うじのり、天文14年(1545年) - 慶長5年2月8日(1600年3月22日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の5男で、氏政、氏照、氏邦の弟とされる。相模三崎城主、伊豆韮山城城代。
生涯[編集]
父は北条氏康。母は瑞渓院殿(今川氏親の娘)。仮名は助五郎。兄弟姉妹に新九郎、氏政、七曲殿、氏照、尾崎殿、長林院殿、蔵春院殿、氏邦、上杉景虎、浄光院殿、桂林院殿。正室は高源院殿(北条綱成の娘)。子に氏盛、菊千代、勘十郎、松千代、女(北条直定室)、女(白樫三郎兵衛室)、女(東条長頼室)。
弘治2年(1556年)10月、外祖母の寿桂尼に預けられる形をとって今川義元の人質として駿府に置かれた。元服は今川義元のもとで行なわれ、仮名の助五郎は今川氏の歴代当主が称した「五郎」から因んだものとされている。義元にとって氏規は外甥であり、そのため今川氏の御一家衆としての待遇を受けた。また、氏規は義元の計らいで駿府で婚姻していたとも見られており、相手は今川氏の一族である関口氏と見られているが、これは今後の研究が待たれるものである[1]。
人質生活は少なくとも、永禄5年(1562年)6月まで続けられていた。記録では永禄7年(1564年)6月には後北条家に戻って既に一族として活動していることが確認されているので、この間に今川氏真から戻されたものと思われる[1]。
後北条家の一族としては、一族の重鎮である北条綱成の娘を正室に迎え、永禄9年(1566年)7月には北条為昌の菩提者としての地位を綱成から継承した。さらに綱成から三浦郡の支配権を、父の氏康から三浦衆の軍事指揮権をそれぞれ与えられて三浦郡の支配を任され、三崎城主となっている[2]。
永禄3年(1560年)5月に今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れて戦死すると、今川氏は急速に衰退していたが、それを見た武田信玄が永禄11年(1568年)12月から遂に駿河侵攻を開始する。永禄12年(1569年)11月、今川氏を支援するために武田信玄と敵対していた氏康は、氏規を伊豆国韮山城に入れて備えとした。その後、氏規は後北条家の西側の軍事的な守備を任される大将として韮山城に在城するようになった[2]。
氏政の代になって武田信玄との同盟関係が修復されると(甲相同盟)、氏規は信玄の人質として甲斐国に赴いたとされている。天正15年(1587年)には上野国館林城代に任命され、合わせて館林領支配も任されたが、氏規は既に三浦郡や韮山支配も担当していたためか、館林には南条昌治を置いて支配を任せている[2]。
武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長も本能寺の変で横死した後、中央では豊臣秀吉が天下人として台頭していた。北条氏政は駿府の人質生活で徳川家康と知己にあった氏規に対徳川家康の外交を任せ、その延長戦上から秀吉との外交も任せていた。氏規は上洛して秀吉と会見し、氏政か甥の北条氏直が上洛して秀吉に臣従する寸前まで交渉をまとめ上げていたとされているが、天正17年(1589年)に猪俣邦憲による上野国名胡桃城奪取事件が起きると後北条家と秀吉の外交関係は破綻し、天正18年(1590年)には秀吉自らによる小田原征伐が発動されることとなった。
氏規は伊豆国韮山城に籠城し、秀吉が差し向けた織田信雄や福島正則ら豊臣の大軍を相手に善戦し、時には打って出て豊臣軍を翻弄したという。韮山城は名だたる堅城であり、氏規の抜群の指揮もあって3か月近くも持ちこたえたが、やがて関東の後北条家の他の諸城が相次いで陥落して士気が低下し、氏規も家康の説得を受けて6月24日に遂に開城した。開城後は、小田原城に籠城している兄の氏政らへの説得を務め、氏政らが開城して切腹することになると、その介錯を務めた。
小田原征伐後は家康の仲介もあって秀吉からは助命され、甥の氏直や嫡男の氏盛と共に高野山に入って蟄居した。しかし天正19年(1591年)に秀吉から赦免され、7000石の知行を与えられて秀吉の家臣となった。同年末、大名に復帰予定だった氏直が急死したため、嫡男の氏盛が氏直の養子になって名跡を継承したが、氏盛はまだこの時点で15歳と若年だったため、実際の家督は氏規が継承していた。
秀吉や前田利家が死去し、石田三成と徳川家康の対立が表面化しつつある中の慶長5年(1600年)2月8日に56歳で病死した[2]。戒名は一睡院殿勝譽宗円大居士。専念寺(大阪府大阪市)。
氏規の遺領7000石は氏盛が継承し、氏盛の4000石と合わせて1万1000石となって大名に昇格し、後北条家は河内国狭山藩主として江戸時代に続いた。
兄弟順について[編集]
氏規は氏政・氏照・氏邦の弟とされているのが一般的だが、近年は氏政・氏照の弟で、氏邦の兄ではないかと言われている。また、氏照も実は氏規の弟ではないのか、とする説もある。
その理由として、氏規の駿府での人質生活を記録している『言継卿記』にある「氏康の次男」という記録である。氏康には早世した長男を除いては4人の男子があり、氏規は早世した兄を除いても4番目に当たるはずだから次男はあり得ない。そのため「正室・瑞渓院所生の次男」という意味と「北条という苗字を名乗る次男」という2つの説が存在する。このうち、瑞渓院の所生としても4番目に当たるはずなので少し考えにくく、そうなると後者のほうの可能性が高い。氏規は一説に兄の氏政に何かあった際のスペア的な地位があったとする可能性が指摘されている。
また、兄とされる氏邦の序列が史料上ではかなり低く、実は庶子で氏規の異母弟だったのではないかとする説が浮上している。ただし浅倉直美の研究によるものだけであり、事実かどうかは不明である。