中御門宣綱

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中御門 宣綱(なかみかど のぶつな、永正8年(1511年) - 永禄12年4月4日1569年4月20日)は、戦国時代公家。父は中御門宣秀[1]。妻は今川氏親の娘[1]

生涯[編集]

宣綱は今川氏親の正室寿桂尼の甥に当たる(寿桂尼は宣秀の妹)[1]。そのため、今川氏とは縁戚関係にあって親密で、自らも氏親の娘を妻に迎えている[1]

永禄元年(1558年)に今川義元を頼って駿河で居住した[1]。しかし永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると今川氏は一気に衰退し、永禄11年(1568年)12月に武田信玄甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んでくると氏真らと共に遠江掛川城に落ち延びてここに立て籠もるが、翌年4月に籠城中に死去したという[1]。59歳没。

宣綱没後の翌月、氏真は北条氏政に庇護されているが、その際に宣綱の遺児も庇護されていたようで、宣綱の忘れ形見となる娘は氏政の養女となって天正15年(1587年)に下野皆川城主の皆川広照に嫁いだという[1][2]。なお、広照の嫡子の隆庸はこの宣綱の娘を母とするとされているが、隆庸の生年などから疑わしい部分も存在する[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P126
  2. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P127

参考文献[編集]