瑞渓院殿
瑞渓院殿(ずいけいいんでん、? - 天正18年6月12日(1590年7月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。相模国の戦国大名・北条氏康の正室。瑞渓院は法名で実名は不詳である。
略歴[編集]
父は駿河国の戦国大名である今川氏親[1]。母は寿桂尼と見られている。兄弟姉妹に氏輝、彦五郎、玄広恵探、象耳泉奘、義元、氏豊、松平親善妻(のち鵜殿長持室)、中御門宣綱室、関口親永室らがいる。
後北条氏と今川氏は氏親と北条早雲以来、友好関係にあったため、彼女も後北条家との友好関係を強めるために嫁いだものと思われる。氏康との婚姻時期に関しては天文4年(1535年)末から天文5年(1536年)初めと推測されている[1]。この時期に父の氏親は既に死去していたため、母の寿桂尼か兄の氏輝の命令によるものと思われる。なお、氏康が当主の時期には「御前様」と称され、永禄2年(1559年)に氏康が隠居した後には「本城御前様」と称された[1]。
氏康との間には長男の北条氏親、次男の北条氏政、3男の北条氏照、4男の北条氏邦、5男の北条氏規、長女の早川殿(今川氏真正室)、次女の浄光院殿(足利義氏室)ら5男2女に恵まれている。ただし近年に史料の検討から、氏邦と浄光院殿は庶子で瑞渓院殿の子供では無い可能性が指摘されている[1]。
元亀2年(1571年)10月3日に夫の氏康が死去すると、同年の11月21日に氏康の49日忌にあたって逆修している[1]。以後は御大方様(おんおおかたさま)と称された[1]。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれ、小田原城が豊臣軍に包囲されている中の6月12日に死去している[2]。これは氏政の後妻・鳳翔院殿と同日の死去であるため、自殺した可能性が指摘されている[2]。
法名は瑞渓院殿光室宗照大姉[2]。