督姫
督姫(とくひめ、? - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。
生涯[編集]
父は徳川家康で次女。母は側室・西郡局(鵜殿長忠の娘)。松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、松平忠輝、亀姫、振姫は異母兄弟、異母姉妹にあたる。
三河国岡崎城で生まれる。名は普宇姫、富子と言われる。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で織田信長が死去して天正壬午の乱が起こり、旧武田領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立した際、家康と氏直は和睦することになり、その代償として家康は次女の督姫を氏直に嫁がせることになった。氏直との夫婦仲は良かったようで、男子には恵まれなかったが、摩尼珠院殿妙勝童女と宝珠院殿華庵宗春大禅定尼の2人の娘が生まれている。しかし氏直は豊臣秀吉と戦う道を選び、舅の家康の仲介も受け入れず、そのため家康は督姫を離縁して送り返すように迫っている。そして小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、氏直は高野山に赴き、督姫もこれに同行したという。その後も天正19年(1591年)に氏直が病死するまで氏直に従ったが、その没後は父の下に戻った。
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の斡旋で、池田輝政との再婚が決められた。この際に督姫は秀吉の養女とされている。輝政との仲も良かったようで、その間に池田忠継・池田忠雄・池田輝澄・池田政綱・池田輝興・振姫(伊達政宗の嫡子・伊達忠宗の正室)など多くの子女に恵まれた。なお、輝政は家康の娘婿になったことで関ヶ原の戦い後は家康から播磨国姫路藩など大きな所領を与えられ、「西国将軍」と称されて絶大な権勢を与えられている。
夫の輝政は慶長18年(1613年)に死去し、督姫はその2年後の慶長20年(1615年)2月4日に死去した。51歳没。
逸話[編集]
輝政は督姫との婚姻のおかげで出世した。そのため福島正則などから「我々は命を賭けた戦場で大きな所領を得たが、お前は下半身で大領を得た」などと述べており、また侍女も督姫のおかげで出世した、と噂したりしたという。
督姫は嫉妬深い女性として逸話がある。輝政には前妻・中川清秀の娘との間に長男の池田利隆がおり、池田宗家の家督は利隆が継承することになっていた。督姫は自らの子である忠継に家督を継承させたかったので、利隆を毒饅頭を使って毒殺しようとしたという。しかし忠継は事前にそれを察知して自ら兄を救うために毒饅頭を食べ、それを見た督姫も後を追うように毒饅頭を食べて死んだという。ただし、忠継は督姫の半月後に死んでおり整合性が合わず、この逸話自体にも信憑性は乏しい。
その他[編集]
督姫の孫の光仲(次男の池田忠雄の子)は因幡鳥取藩の初代となり、家康の外曽孫のため、松平の姓や葵紋が累代に与えられ、江戸城登城時も玄関まで刀を持ち込む特権が与えられた。