北条氏光
北条 氏光(ほうじょう うじみつ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で後北条氏の一族。正室は北条幻庵の娘。子に氏則、三郎四郎、興教院殿。通称は四郎。官途名は右衛門佐[1]。
来歴[編集]
父は北条氏康とも、氏康の弟の北条氏尭とも言われている[1]。また、兄に北条氏忠がいたとされるが、これも父親がどちらかで異なることになる。幼名は竹王丸(たけおうまる)という(『北条記』巻3)。仮名は四郎。この四郎は天正2年(1574年)7月まで確認され、天正6年(1578年)1月からは右衛門佐を称している[1]。
元亀元年(1570年)頃に、一族の最長老である北条幻庵の末娘を正室に迎えている。これは上杉景虎に嫁いでいた娘であるが、景虎が上杉謙信に養子に赴くことになった際に離縁となったため、氏光に代わって嫁いだという。生年についての記録は無いため不明だが、少なくとも景虎よりは年少で、弘治2年(1556年)以降と見られている[1]。
永禄11年(1568年)に甲駿相三国同盟が武田信玄の駿河侵攻により破綻すると、後北条氏と甲斐武田氏は敵対関係となり、元亀元年(1570年)12月に氏光は駿河国深沢城の後詰に赴いている。元亀2年(1571年)7月には相模国足柄城の城将に任命され、駿河・相模国の防衛を担当した[1]。元亀3年(1572年)には小机城主に任命されているが、これはこれまで幻庵が務めていたので、高齢になっていた幻庵に代わって娘婿である氏光が継承したと見られている[2]。
天正7年(1579年)に御館の乱で武田勝頼が上杉景勝と和睦・同盟(甲越同盟)したことから、後北条氏と武田勝頼は敵対関係となって甲相同盟が破綻。氏光は勝頼の侵攻を防ぐために駿河大平城主として派遣された。これも幻庵が担当していたものを継承したものである。天正10年(1582年)3月に織田信長の侵攻で武田氏が滅亡すると、5月には足柄城に戻っている[2]。
天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉の小田原征伐で小田原城が開城して後北条家は滅亡。北条氏政は切腹し、北条氏直は高野山に赴くことになり、氏光もそれに従って高野山に赴く[2]。
従来ではそのわずか2か月後の9月15日に高野山で死去したとされており[2]、Wikipediaでもその出鱈目がそのまま採用されているが、これは間違いである[3]。
文禄4年(1595年)の『京大坂之御道者之賦日記』で「北条右衛門助殿様」という記録があり、さらに「只今は大和なら二御座候」とあることから、少なくともここまでは生存して大和国の奈良にいたことがわかっている。そのため、従来の死去としていた天正18年(1590年)9月の「北条家過去帳」の供養は逆修だった可能性がある[4]。その後の動向は不明[4]。
家族[編集]
父母兄弟[編集]
- 父母、兄弟に関しては北条氏康か、あるいは北条氏堯かのどちらかで異なるため、ここでは記さないこととする。