松田憲秀

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松田 憲秀(まつだ のりひで、? - 天正18年7月16日1590年8月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。北条氏康氏政氏直の3代にわたって仕えた重臣のひとり。官途は左馬助、受領名は尾張守。父は松田盛秀。母は北条為昌の養女で北条綱成の妹。子に笠原政晴(政尭)直秀直憲、松田殿(北条氏康側室)、娘(内藤直行室)。

生涯[編集]

松田氏は憲秀の祖父・頼秀の時代に京都から関東に下向し、北条早雲に仕えた後北条氏の御由緒家の7家に列する名家であった。生年については死去した年の年齢を「62」と『堀尾古記』で記されており、これに従うなら享禄2年(1529年)となる。しかし、この史料は氏政の年齢も正確では無いため信用できず、他の史料にある「氏政より3歳年上」とある天文5年(1536年)であるのではないかと見られている。

憲秀の所領は2798貫を数える大身であり、これは後北条氏の一門である北条幻庵に次ぐものである。憲秀は天文9年(1540年)頃に家督を相続して氏康に仕え、左馬助を称して小田原衆筆頭として家老に任命された。相模から武蔵に通じる要衝である後北条家直轄領である関戸の代官も務めた。元亀2年(1571年)に氏康が死去すると氏政に仕え、天正5年(1577年)に次男の直秀に家督を譲って尾張守を称した。しかし隠居しても後北条家の重鎮として活動している。主に他国衆の統率、外交、奉行などの政治面で活躍している。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐が始まると小田原城への籠城策を主張し、それが氏政に採用されて憲秀は小田原城に入城して早川口の守備を担当した。しかしその間に豊臣軍によって後北条氏の各城は次々と落とされて小田原城は孤立無援になる。そして秀吉の策略により城内に対する離間策が進められ、憲秀には早川口を担当する豊臣軍の武将・堀秀政から伊豆相模の2か国を与える約束で内応を働きかけられる。憲秀はこの内応に迷い、積極的に応じたのは長男の笠原政尭であったという。しかしこの内応工作は6月16日に次男の直秀により氏直に訴えられ、憲秀は捕縛されて笠原政尭は即日処刑された。

7月5日に小田原城が開城すると、憲秀は秀吉からその不忠を咎められ、7月11日に氏政と氏照が処刑された後、憲秀もその5日後に処刑されたという。これには内応しようとした憲秀は自分に忠実であるとして秀吉は助命し、逆に氏直に父を訴えた直秀を処刑しろと黒田孝高に命じたが、孝高は聞き違えたふりをして憲秀を処刑したという。後に秀吉がこれを咎めると、直秀は後北条家に忠を尽くした忠臣であり、忠孝を秤にかければ忠義が重いことを秀吉に教えたのだという逸話がある。