木曾義昌

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木曾 義昌(きそ よしまさ、天文9年(1540年) - 文禄4年3月17日1595年4月26日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将信濃木曾谷の領主で木曾家の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭・伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院[1](真理姫)。子に千太郎、義利義春義通、娘(毛利高政正室)。

生涯[編集]

武田信玄から御親類衆としての待遇を受ける[1]。信玄の命令で織田家美濃上杉家飛騨などの押さえを務めた[2]天正3年(1575年)5月の長篠の戦い武田勝頼織田信長徳川家康連合軍に大敗すると、その動向を勝頼により監視され、翌年には義昌の家臣が勝頼に起請文を提出する事態となっている[2]。長篠敗戦後、武田家の衰退で織田信長の圧力が増したため、天正10年(1582年)1月に弟の上松義豊を信長の人質として差し出し、勝頼から離反した[2]。これにより武田征伐が開始され、甲斐新府城で人質になっていた義昌の老母や子女が勝頼によって処刑された[2]

3月に武田勝頼が自殺して武田家が滅亡すると、義昌は信長から梨子地の太刀と黄金100枚、深志城松本城)と信濃の2郡を与えられ、深志城に城代を置いて松本・安曇地方経営の拠点とした[3]。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱。義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった近隣の諸将にも森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。長可の本拠地に程近い大井宿で岩松丸はようやく解放されて木曽谷に帰還できた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、本領木曽谷へ撤退するに至った。一方、信長によって上野に配されていた滝川一益は本能寺の変後、これに乗じて攻め寄せた北条氏直に敗れ、本領のある伊勢長島に帰還することを目指していた。だが、一益が木曽谷を通ることに義昌は難色を示したため、一益は自らが伴う佐久・小県郡の人質を引き渡すことを条件に通過を承諾させ、6月28日に木曽福島城で人質を引き渡していった(この時の人質は、後の9月17日に義昌から徳川家康に恭順の証として引き渡されている)。8月には信濃平定に動いた徳川家康と盟約を結んで木曾谷を所領安堵された。しかし信長没後、羽柴秀吉が中央で強大な権力を確立したのを見て天正11年(1583年)に家康から離反して秀吉に与した[4]

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は秀吉の命令で関東加増移封されることになったが、この際に義昌もこの移封に従うことになり、下総蘆戸に1万石を与えられた。これは家康をかつて裏切った報復と、木曾の山中を掌握するための秀吉の策略だったとされ、同年12月12日に家臣に対して知行の宛行を行なったが、その直後に家督を子の義利に譲って隠居した。その5年後の文禄4年(1595年)3月17日に蘆戸で死去した。享年56[4]

遺体は蘆戸城の西北にあった椿湖の水中に葬られ、後に椿湖が寛文年間に干拓されたため改めて墳墓が作られた。法名は東禅寺殿玉山徹公[4]

脚注[編集]

  1. a b 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P226
  2. a b c d 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P227
  3. 平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史 増補改訂版』( 戎光祥出版、2015年、35頁)
  4. a b c 『三百藩藩主人名事典2』P85

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六平山優 『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03424-3
  • 『三百藩藩主人名事典2』藩主人名事典編纂委員会 編、1986年。新人物往来社