北条氏忠

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北条 氏忠(ほうじょう うじただ、弘治2年(1556年) - 没年不詳) は、戦国時代武将。姓名は佐野 氏忠(さの うじただ)ともいわれている。

生涯[編集]

父に関しては北条氏康、あるいは氏康の弟の北条氏尭ともいわれている[1]。生年は『堀尾古記』にある天正18年(1590年)条に「35歳」とあることから、これを逆算したものである。仮名は六郎。官途は左衛門佐[2]

史料上で氏忠の活動が確認できるのは、永禄12年(1569年)11月に北条氏規と共に伊豆国韮山城に在城していることである。この在城は元亀元年(1570年)8月まで確認されている。この頃から、配下の武将に対して感状を出したり、氏康の隠居領支配や家臣団統制を代行したりしている形跡が確認されている[2][3]

天正3年(1575年)3月には小田原城小曲輪の在番衆の筆頭を務めている。この頃から小田原城に詰めているのが確認されている。また、北条軍の武将として軍を率いて最前線の拠点などに在城するなどしているのが確認されている[3]

天正10年(1582年)に武田勝頼の自害、さらに本能寺の変による織田信長の死去を経て旧武田領が無主状態になると、北条氏直徳川家康と対立して旧武田領に進軍。氏忠も武蔵国から甲斐国郡内に進軍して御坂城を落としている。天正14年(1586年)8月、氏直は下野国佐野氏の本拠である佐野城を当主不在を理由に乗っ取り、その領地を併合すると、氏忠に佐野氏の前当主である佐野宗綱の長女・明窓貞珠大姉と結婚させ、佐野氏の婿養子として佐野氏の家督を継承させた。そのため、氏忠は佐野氏忠と言われるようになる。同年から佐野領支配のために多くの文書を発給している[4]

天正16年(1588年)1月、相模国新城の守将を務める。天正17年(1589年)7月、豊臣秀吉との交渉で、上野国真田昌幸沼田城の帰属をめぐって争った際、氏忠が沼田城の受け取り人を務めている。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、氏忠は小田原城籠城する。戦後は氏直に従って高野山に入っている[4]

従来は天正19年(1591年)に氏直が死去すると、伊豆国河津の林際寺に隠棲し、文禄2年4月8日1593年5月8日)に死去したとされていた[4]Wikipediaの氏忠の記事でもそれが採用されている[5]

しかし『京大坂之御道者之賦日記』において、「北条左衛門助殿様」という記述と「只今はあきの草津と申所に御座候」という注記があることから、少なくとも死去とされている年から2年後にはまだ存命しており、さらに安芸国草津に在所していることが明らかになっている。そのため、文禄2年の供養に関しては存命中の逆修と見られている[4]。その後の動向は不明だが、氏忠の家系は毛利氏の家臣として存続していることから[6]、氏忠も毛利氏の家臣として天寿を全うしたものと見られている。戒名は大関院殿大嶺宗香大居士[4]

氏忠には前妻・明窓貞珠大姉との間に子は無く、後妻の乗讃院殿との間にひめぢという1人娘が生まれており、後にひめぢが毛利氏家臣の子を北条就之として養子に迎えて家系は存続している[6]

脚注[編集]

  1. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P83
  2. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P84
  3. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P85
  4. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P86
  5. 2022年現在ではWikipedia日本語版にEnpediaのコピペをされて訂正されている。2021年12月に訂正した模様である。
  6. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P87

参考文献[編集]