武田信勝
武田 信勝(たけだ のぶかつ、永禄10年11月1日(1567年12月11日) - 天正10年3月11日(1582年4月3日))は、戦国時代の武将・戦国大名。甲斐武田家の第20代、実質的に最後の当主。
生涯[編集]
父は武田勝頼で嫡男[1]。母は遠山直廉の娘で織田信長の養女[1](龍勝寺殿)。祖父は武田信玄。祖母は諏訪頼重の娘・諏訪御料人。兄弟姉妹に勝親、貞姫らがいる。子女はいない。幼名は武王丸(たけおうまる)[1]。仮名は太郎[1]。信勝の出生は難産だったようで、生母は信勝が生まれてすぐに死去したという(一説に元亀2年(1571年)没の説もある)。
『甲陽軍鑑』によると信玄は遺言で信勝を後継者に指名しており、父の勝頼は信勝が成人するまでの陣代(名代)にすぎなかったとされるが、信勝は信玄死去の時点でわずか7歳であり、勝頼がその後は事実上の当主として活動している点などから真偽の程は不明である。
天正3年(1575年)から史料上での活動が確認される[1]。家中では「御曹司様」と称された[1]。天正7年(1579年)末頃に元服し[1]、祖父の信玄と同じ太郎を称した。この時の元服は父の勝頼が遠征中に吉日を選んで行なわれている慌ただしいものだったという[2]。
当時の武田家は織田信長と敵対し、その攻勢に追い詰められつつあった。勝頼は信長と和睦するため生母が信長の養女である信勝を押し立てようとした[2]。元服前後には武田家臣に対して官途・受領の授与が行なわれており、人心の刷新を図る目的もあったものと推測される[2]。なお、元服の翌年に勝頼を「御隠居様」と称している史料があるため、元服直後に勝頼から信勝へ家督相続が行なわれた可能性もある[2]。
天正10年(1582年)2月、織田信長による武田征伐が始まると父の勝頼に最後まで従う。3月3日に父・勝頼が新府城を放棄して郡内に逃亡しようとする際の軍議において、父に対して新府城で篭城して切腹するべきだと主張したとされている(『甲陽軍鑑』)。3月11日に織田軍に追い詰められて戦死した。これにより甲斐武田家は戦国大名としては完全に滅亡した[1]。
法名は英材雄公大禅定門[1]。辞世の句は「あだに見よ、誰もあらしの、桜花。咲き散るほどは、春の夜の夢」。
武田信勝が登場する作品[編集]
- 映画
- ドラマ
- 漫画
- コンピュータゲーム
- 婆裟羅2(ビスコ、2001年) - アーケード用シューティングゲーム。武田信勝が主人公。オーバーテクノロジーの戦国時代が舞台となっている。