甲斐武田氏

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甲斐武田氏(かいたけだし)とは、日本武家である。武田信玄という戦国時代を代表する英傑が誕生した戦国大名として有名である。支族に若狭武田家安芸武田家など多数が存在する。

戦国時代後期には甲斐信濃駿河遠江三河飛騨美濃上野越後越中など諸国に勢力を拡大して天下統一に近い勢力のひとつにまで成長し、越後の上杉謙信と5度にわたる川中島の戦いを繰り広げる。信玄没後の長篠の戦いで多くの重臣を失う致命的な大敗を喫して勢力を失う。長篠から7年後に織田信長徳川家康連合軍に甲斐・信濃を攻められて戦国大名としての甲斐武田家は滅亡した。

歴史[編集]

起源[編集]

甲斐武田家の起源は清和源氏新羅三郎義光から始まる。義光の子・武田義清は初めて武田姓を称して甲斐に入国した。義清は常陸において源業宗の娘を娶り、その間に武田清光が生まれる。しかし大治5年(1130年)12月30日、現在の茨城県ひたちなか市にある武田郷において清光は乱暴を働いたため、父もろとも常陸国司より中央政府に訴えられた。これにより義清らは常陸から追放され、現在の山梨県西八代郡市川大門町にある甲斐市河荘に配流された。配流先で義清は平塩岡(現在の市川三郷町内)において館を構え、ここを拠点にして甲斐に勢力を拡大する。

久安5年(1149年)7月に義清は死去し、清光が跡を継ぐ。清光は官牧・私牧として開発が進んでいた北巨摩郡に進出し、逸見郷を新たな拠点にして自ら逸見冠者と称した。清光には11人の子供があり、それらを甲府盆地の土地の名を姓にして甲斐源氏一族を構成し、支配の基礎固めを図った。清光の長男・光長逸見家を、次男の信義は逸見家の南にある現在の韮崎市西北の甘利荘に進出して武田家の家督を相続した。

平安・鎌倉期[編集]

平安時代後期に平治の乱に勝利した平清盛平氏政権を樹立して中央で政権を握り、全盛期を迎えていた。しかしこの清盛の専制に反発する勢力も少なくなく、治承4年(1180年)8月に以仁王により平氏征討の令旨が下され、9月15日に源頼朝の使者である北条時政によって甲斐源氏にも令旨の写しが届けられた。信義は頼朝への与力を表明し、10月に信義ら甲斐源氏一党は駿河に出陣して富士川の戦いに参加した。ところが頼朝や北条家は甲斐源氏の勢力が関東で拡大することを懸念して弾圧を開始し、信義の子の一条忠頼元暦元年(1184年)に謀殺され[1]武田有義、一族の安田義定らが謀反の嫌疑をかけられて次々と粛清された。

文治2年(1186年)の信義の死後、武田家を継承したのは粛清を免れた5男の信光で、現在の笛吹市石和町すなわち八代郡石和に地盤を移して石和五郎信光と称した。鎌倉幕府支配下で甲斐守護となる。信光は承久3年(1221年)5月の承久の乱では甲斐源氏の小笠原長清らとともに東山道を進軍する幕府軍に従軍して上洛した。その功績として幕府より安芸守護職を与えられた。

信光には子に信政、一条信長岩崎信隆らがいたが、信政は活動が承久の乱までしか見られない当主で、弟の信長が弘長3年(1263年)まで活動が多く確認されているため、信長が甲斐武田家を一時期は継承していたのではないかとする説もある。信政には子に信時・政綱らがおり、この時に甲斐武田家は信時系と政綱系に分裂する。信時系は安芸守護職を継承して武田姓を称し、最終的に信時系が勝利したようである。政綱系は石和氏を称した。

南北朝・室町期[編集]

鎌倉幕府が後醍醐天皇足利尊氏新田義貞らの攻勢により崩壊し、尊氏が建武政権から離反すると、甲斐武田家7代の信武は尊氏に従って安芸守護、そして甲斐守護になった。これに対して政義系の石和政義南朝方に与して信武に抗戦するが、康永2年/興国4年(1343年)1月に北朝方に攻められて戦死した。

信武の跡は息子の信成が継ぎ、この頃からようやく甲斐武田家は安定した甲斐支配を実現した。ところが信成の孫で第10代を継承した信満は上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、室町幕府の支援を得た鎌倉公方足利持氏禅秀を討ち取ると、信満も追討の対象とされて持氏に攻められて自害を余儀なくされた。この際、信満の弟の信元と嫡子の信重は高野山に逃れたために命は助かるが、甲斐は守護不在となり動乱期に入ってしまった。その後、甲斐武田家の存続をめぐり室町幕府将軍・足利義持と鎌倉公方の足利持氏の対立が起こる。義持は信元を守護とするが、この信元は短期間で没した。義持は改めて信重を甲斐守護にしようとしたが、その間に甲斐は守護代である跡部氏により専横されるがままだった。また義持の死去、持氏の反対などもあり、信重は在京のまま甲斐守護になることを望み、信重が甲斐に帰国するのはようやく永享10年(1438年)のことである。ところが帰国直後に永享の乱が起こり、信重は足利義教に与して永享の乱から触発された結城合戦に参戦し、結城一族の追討に功を挙げた。結城合戦の直後に赤松満祐により足利義教が謀殺されると(嘉吉の乱)、信重の下にも管領細川持之から参陣要請が出されており、早い段階で甲斐武田家は勢力の回復を果たしていたようである。

信重の子で第13代を継いだ信守は康正元年(1455年)に早世。その結果、信守の息子でわずか9歳の信昌が第14代となる。ところがこのため、守護代である跡部氏の勢力が再び盛り返すことになり、幼君の下で跡部明海景家父子による専横が行なわれる。成長した信昌は実権を取り戻すために跡部氏と抗争し、寛正6年(1465年)7月に現在の山梨市にあった跡部氏の小野田城を攻め落として景家を自害させた。これにより実権は信昌が握るが、不安定な支配体制や内乱などは外敵の侵入も招くことになり、同時期に信濃の諏訪氏などが甲斐に出兵している。また信昌の勝利は必ずしも甲斐武田家の安定にはつながらず、武田一族や庶流の中には国人領主化して半独立したり、中小領主層による連合一揆など反信昌の動向を示す勢力も少なからず存在した。また関東では古河公方足利成氏関東管領山内上杉氏による抗争もあり、信昌も否応なくその抗争に巻き込まれて幕府から古河公方追討令まで受けている(『足利家御内書案』)。文明4年(1472年)4月には信濃の大井政朝に八代郡を侵略され、それに同調した国内反乱も発生するなど(『王代記』『勝山記』)、信昌の統治は安定しなかった。

戦国時代初期[編集]

信昌は延徳4年(1492年)に子の信縄に家督を譲った。ところが信縄が病弱で、信昌は次男の油川信恵を溺愛した。そしてこの病弱と溺愛が合わさって信縄と信昌・信恵との間に家督抗争が勃発する。この抗争は両派による武力抗争に発展した。その間に伊豆を制圧した北条早雲の甲斐侵攻などが行なわれ、窮した信縄らは和解して外敵に対処した。信昌・信縄が相次いで死去し、武田家16代に信縄の嫡子・信虎がなると、信恵はそれに不満を持って勝山合戦と呼ばれる内乱を起こした。だがこの内乱で信虎は信恵ら一派をほぼ討ち取り、甲斐武田家の家督抗争を終結させた。

信虎は独立性の強い一族や有力国人の譜代被官化を推し進め、外敵である諏訪氏や大井氏今川氏などにも果敢に対処しながら甲斐の統一事業に邁進した。そして穴山氏、大井氏など有力国衆を次々と服属させて天文元年(1532年)9月に甲斐一国を統一した。さらに信虎は信濃侵略を開始し積極的な勢力拡大を行なうが、連年の出兵や軍事行動は国人や領民に多大な負担を強いた。また同時期に甲斐では飢饉も発生し、甲斐では軍事に邁進する信虎に怨嗟の声を挙げる者も少なくなかった。この一派は天文10年(1541年)6月に信虎の嫡子・晴信を擁して信虎を追放し、晴信を新たな17代当主に押し立てた。これが戦国史上有名な武田信玄である。

全盛期[編集]

晴信は信虎が進めていた信濃侵攻をさらに積極的に行ない、諏訪頼重小笠原長時村上義清ら信濃の有力勢力と交戦する。この内、村上義清には2度にわたり手痛い敗北を喫したが(上田原の戦い砥石崩れ)、真田幸隆の助力を得て遂に義清も追放し、天文年間末期までには信濃をほぼ制圧した。しかし信濃制圧は同時に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を敵に回すことになり、合計5回の川中島の戦いを引き起こして信玄は弟の信繁ら有力な武将を何人も失いながらも信濃の領土を守り抜いた。

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで武田家の同盟者である今川義元織田信長の前に敗死して今川家に動揺が見られ始めると、信玄は今川家と手切れして駿河侵攻を行ない、駿河を支配下に置く。さらに今川旧領の権益をめぐって徳川家康とも対立し抗争を繰り広げた。元亀3年(1572年)10月、足利義昭の命令に応じて織田信長・徳川家康の領地に大規模な侵攻を行ない、結果東美濃、遠江北部と南部の東側、三河北部などを支配下に置いた。さらに12月には三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に大勝して気勢を挙げたが、翌年4月に遠征の途上で信玄は病死し、武田軍は遠征を中止して甲斐に引き揚げた。

信玄の没後、武田家18代を継いだのは4男の勝頼で、勝頼は信玄死去の翌年から織田徳川領への侵略を繰り返して勢力拡大を行なう。この結果、甲斐武田家は中部・東海・関東・北陸に跨る有力な戦国大名となり、天下に最も近い勢力のひとつとなった。

衰退・滅亡期[編集]

天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで勝頼は信長・家康連合と戦い、山県昌景馬場信春内藤昌豊ら多くの有力宿将を失う大敗を喫した。これにより甲斐武田家の軍事力は急速に衰退し、代わってこれまで押されていた織田・徳川連合の逆襲が開始される。東美濃や三河・遠州では次々と武田方の勢力は駆逐された。勝頼は亡父の宿敵であった上杉謙信と同盟して信長と対抗するが、謙信が天正6年(1578年)3月に急死すると上杉家御館の乱と称される御家騒動が始まる。これに巻き込まれた勝頼は上杉景勝を支持したため、北条氏政の縁戚で養子であった上杉景虎を見捨てることになる。結果、武田家と北条家の同盟は破綻して氏政は信長・家康と同盟を結んだ。これにより、武田は北の上杉とは関係を修復したが西の織田、南の徳川、東の北条に挟まれることになり、まさに四面楚歌の状態となる。

勝頼は信長と和睦することで窮地を脱しようとしたが信長は応じず、天正9年(1581年)には遂に遠江最後の拠点であった高天神城が家康の攻撃によって落城する。天正10年(1582年)初頭になると信玄の娘婿で武田家の一門衆であった木曾義昌が信長に内通して離反し、これを機に織田・徳川連合による武田征伐が開始される。この征伐で穴山信君小山田信茂ら一門や家臣らが次々と勝頼から離反し、武田家は仁科盛信が守る高遠城を除いてほとんど総崩れ状態となる。3月11日、武田勝頼は天目山において織田軍に捕捉されて逃げ切れず、嫡子の信勝ら妻子一族と共に自害し、甲斐武田家は戦国大名としてはここに滅亡した。

甲斐武田家の歴代当主[編集]

  1. 武田信義
  2. 武田信光
  3. 武田信政
  4. 武田信時
  5. 武田時綱
  6. 武田信宗
  7. 武田信武
  8. 武田信成
  9. 武田信春
  10. 武田信満
  11. 武田信元
  12. 武田信高
  13. 武田信重
  14. 武田信守
  15. 武田信昌
  16. 武田信縄
  17. 武田信虎
  18. 武田晴信(信玄)
  19. 武田勝頼
  20. 武田信勝

甲斐武田家の家臣団[編集]

武田家一門[編集]

武田家家臣[編集]

甲斐武田家の庶家[編集]

脚注[編集]

  1. 豊田武 『日本史小百科・家系』東京堂出版、1999年、P172

参考文献[編集]