征夷大将軍

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
Jump to navigation Jump to search

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは、律令制において奈良時代から平安時代東北地方に割拠した蝦夷を討伐するために派遣された遠征軍の総指揮官の称号である。鎌倉時代からは幕府のトップの称号となり、それが室町時代江戸時代にも継承された。明治維新により廃止された。

概要[編集]

征夷とは、東北の「蝦」を「討」することから取られている。つまり、蝦夷を征討することから取られているのである。この征夷大将軍は天皇が必要であると認識した場合、征夷大将軍もしくは将軍に任命した人物に節刀を与えて任命する。これにより征夷大将軍には天皇から直々に諸国から動員された軍団や兵士の指揮権を与えられたことになり、軍の編成や作戦行動を行なうことになる。東北地方の進出や反乱鎮圧に関してはこの征夷大将軍、もしくは征東将軍・征夷将軍と称された人物が行なっている。8世紀末から蝦夷勢力との争いは本格化したため、延暦13年(794年)に大伴弟麻呂桓武天皇から征夷将軍に任命されて第3次遠征軍を率いている。延暦21年(802年)には坂上田村麻呂が桓武天皇から征夷大将軍に任命されて第4次遠征軍を率いて蝦夷勢力を平定し、さらに全国の俘囚の統率まで果たしたことから、大伴弟麻呂と違って坂上田村麻呂は征夷大将軍の成功的な先例として後世に見なされるようになった。

次には文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられたが、その後、征夷大将軍は途絶えることになる。この職はもともと蝦夷、つまり朝廷に従わない東北の勢力を征討するために設置された役職であるためで、また職における軍権があまりに強大過ぎるためであった。

平安時代末期になると、源氏平氏の間でいわゆる源平合戦が始まった。この中で、平氏の主力軍を壊滅させた源義仲が入京し、後白河法皇に対して征夷大将軍を要求した。だが、義仲とその軍勢が京都で略奪などを働き、さらに義仲は平氏を征討できず、また後白河とも皇位をめぐって争うなどしたため、後白河はこれを認めず源頼朝に命じて義仲を征伐させた。その頼朝は平氏討伐を弟の源義経らに任せて関東で着実に勢力基盤を築き、平氏を滅ぼした後、今度は弟の義経を討伐することにした。義経は東北の奥州藤原氏の下に亡命し、これを機に頼朝は後白河に征夷大将軍を求めた。義経とそれを保護する奥州藤原氏は東北地方にあるため、まさに征夷大将軍が必要になるからである。しかし、後白河にとって奥州藤原氏は平氏のように必ずしも敵対している存在ではないし、何よりも頼朝にそれを与えれば頼朝に強大な権力を自ら与えることになるため拒否した。そして奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされ、さらに後白河が崩御すると、頼朝は建久3年(1192年)に後鳥羽天皇より征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を開いた。

この後、征夷大将軍は武士社会のトップと見なされるようになる。しかし頼朝の死後、鎌倉幕府では激しい権力争いが発生して頼朝の血統は断絶し、権力争いで生き残った北条氏により摂家将軍皇族将軍が擁立されて征夷大将軍は傀儡同然の立場になった。

その鎌倉幕府が後醍醐天皇足利尊氏らによって滅ぼされ、政権は再び朝廷の下に復した。後醍醐天皇は武士に征夷大将軍を与えることで再び幕府が再興されることを恐れて、自分の皇子である護良親王らに与えた。だが、討幕運動で著しく勢力を拡張した尊氏が中先代の乱で反乱を鎮圧し、さらに建武政権からも離反する。この時点でまだ尊氏は正式には将軍に任命されていなかったが、『太平記』などでは既に将軍と名乗っていたことが記録されている。そして尊氏はやがて正式に朝廷から征夷大将軍に任命されて室町幕府を開いた。

この室町幕府の将軍が有効に機能していたのは第8代将軍の足利義政までであり、それ以後の将軍は死没地が本拠の京都で遂げることすらできないほど弱体化した。第10代将軍・足利義稙は流れ公方と称されて各地に亡命し続けた将軍であり、これを見てもわかるように必ずしも征夷大将軍=天下人というわけではなかった。最後の将軍・足利義昭織田信長と対立して京都から追放された後も将軍職にはあり続けたが、あくまでそれは名目上のもので、室町幕府は信長により事実上は滅ぼされた。

その信長は天正10年(1582年)の段階で武田勝頼を滅ぼし、事実上の天下人として政権を掌握していた。そのため、朝廷は信長に対して征夷大将軍か太政大臣関白の三職を推任してきた。これを見ておわかりと思うが、この時点で義昭がまだ存命で名目上とはいえ征夷大将軍職をまだ保持していたにも関わらず、朝廷は信長に推任している。つまり将軍職はあくまで朝廷にその任命権があり、仮に元将軍が存在していても新たに将軍を任命することができることを意味している。

信長の死後、豊臣秀吉が政権を掌握する。その秀吉は備後国にいた足利義昭に所領を与えることを条件に自らを養子にすることを求めた。つまり将軍に就任しようとしたのであるが、義昭がこれを拒否したため秀吉の将軍就任は実現しなかった。ただしこれは江戸幕府儒学者である林羅山の説が初出であり、事実かどうかは疑問が持たれている。ただしこれを見てもわかるが、武家のトップはあくまで征夷大将軍と当時は見なされていたのである。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が政権を握り、慶長8年(1603年)に江戸に幕府を開いた。家康は慶長10年(1605年)に嫡男の徳川秀忠に将軍職を譲って大御所となる。これは以後、征夷大将軍が徳川氏の直系に受け継がれていくことを示すため、と言われている。また、秀忠の孫・徳川家綱以降の将軍は江戸で就任式が行なわれるようになり、また上座に将軍が、下座に勅使が座るようになり、将軍が朝廷に勝る存在として君臨するようになった。

だが、幕末になるとこの征夷大将軍が逆に江戸幕府にとって足枷となった。当時、攘夷が盛んに叫ばれており、つまり外国人は夷敵であると見なされていた。つまり征夷大将軍が攘夷を行なう者と見なされていたため、外国と仲良くすることは征夷大将軍そのものを否定することにつながるのである。そのため、江戸幕府は外国と条約を結びながら攘夷も行なわなければならないと見なされており、結局、これが最後までネックになって幕府は攘夷そのものを取り締まることができなかった。また、幕末になって幕府権力が衰退し、勅使が上座に、将軍は下座に置かれるようになって立場が逆転した。

そして徳川慶喜大政奉還を行なって江戸幕府は消滅し、明治維新により征夷大将軍は廃止された。