室町幕府

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室町幕府(むろまちばくふ)は、鎌倉幕府滅亡後の1336年または1338年足利尊氏京都において立ち上げた武家政権。名前の由来は3代将軍足利義満が京都北小路室町に造営した室町殿(花の御所)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが幕府後半は戦国時代に突入し、最後は1573年織田信長によって足利義昭が追放され、事実上の滅亡に追い込まれた。もっとも、全盛期は3代目だったのだが。

室町幕府の征夷大将軍[編集]

室町幕府の征夷大将軍は鎌倉幕府源氏3代)や江戸幕府と比較すると弱かった。これは初代将軍の尊氏が建武政権で冷遇された諸大名に担がれる形で幕府を開いていたからである。そのため、将軍とは諸大名のひと頭上程度の存在でしかなく、絶対的な権力は所有していなかった。初代の尊氏ですら土岐頼遠の処刑に数ヶ月もかかったり、観応の擾乱で弟の足利直義や家臣らの要求を受け入れたりしている。第3代将軍の義満の時代は全盛期ではあったが、大内氏応永の乱で弱体化させておきながら毅然とした態度をとれなかったり、やはり家臣の要求を容れて管領を罷免したりするなど、絶対的な権力を持つにまでは至っていない。そして、義満の死後は2人の将軍が暗殺され、さらに第9代将軍以降は全て京都では死ねず(あるいは天寿を全うできずに)他国に追放されて没するなど、将軍権力の弱さがそのまま表面化する形になっている。

また、足利将軍家では嫡子となる跡継ぎ以外の将軍の男子、そして将軍の娘は嫁ぐこともなく全て出家させられて僧侶とさせられていた。足利将軍家の子女なので、僧侶としてはかなり高い地位には置かれているが、男子は15代までこの慣例が続けられ、女子も11代・足利義澄の時代までこのやり方が続けられている。これらの子女にはいくらかの例外もあるが、ほとんどが出家させられており、後継者争いを避けるためとはいえこれは異常ともいえる(第6代将軍の義教、第11代将軍の義澄、第15代将軍の義昭にしても僧侶から還俗した将軍)。これは恐らく、将軍に男子に対しては分けるだけの所領が存在しておらず、そのため出家させるしか手が無かったのではないかと思われる(江戸幕府のように子女を藩屏として分与していない)。

織田信長が足利義昭に意見状を突き付けた際「将軍には分けるだけの所領がない」という記述があり、将軍直属の奉公衆にしてもその数は1万程度だったとされているので、将軍の直轄領は恐らく40万石程度だったのではないかと推測される。

またこの幕府の将軍は寿命に余り恵まれていない。数えで50歳代を迎えているのは初代、3代、8代、11代、15代の5人だけであり、残りは40歳代以下で死んでいる。特に第11代以降は30歳代で死去するケースが多く、そのため幼児や若年の将軍が何人も誕生しており、それも将軍権力の弱体化を助長する結果となった。

室町幕府の歴代征夷大将軍[編集]