織田秀信
織田 秀信 おだ ひでのぶ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・キリシタン大名。織田信忠の嫡男で織田信長の嫡孫。美濃岐阜城主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。
生涯[編集]
本能寺の変と織田家の後継者[編集]
天正8年(1580年)生まれで、徳川秀忠より1歳下である。父は織田信長の長男で既に織田家の家督を相続していた織田信忠。母は不詳であるが、側室の塩川長満の娘が有力視されている(一説に武田信玄の娘で信忠と婚約していた松姫とする説がある)。幼名は三法師(さんほうし)で、この幼名でよく知られている。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で祖父の信長、父の信忠はいずれも重臣の明智光秀の反乱により自害した。この際、信忠は自らに供奉していた前田玄以に美濃岐阜城に逃れ、三法師を守るように遺命したとされる。玄以は信忠の遺命に従い、岐阜に至ると三法師を庇護して岐阜城から尾張清州城に逃れた。明智光秀はその間に中国大返しを敢行した羽柴秀吉により討たれ(山崎の戦い)、明智残党も成敗されたことにより、以後の主導権は秀吉が握るようになった。
6月27日、秀吉をはじめ柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興などの信長の重臣らが清州城に集まって今後のことを決める会議を開催する(清州会議)。織田家の家督を相続していた信忠も討たれたためであり、その遺領をどうするかの相談であり、この会議により三法師が織田家の家督を継承すること、遺領分配などが決められた。
ただし、一次史料などから織田家の家督は信長の次男・信雄、すなわち三法師の叔父が継承することが10月に決められた、とされている。数えでわずか3歳の幼児に織田家を統率するのは無理と見られたためと思われる。藤田達生は信雄が賤ヶ岳の戦いの後、安土城に移って天下人としての体制固めに入っていたこと、本能寺の変により安土城は大半が焼失していたが、山麓の施設や城下町は健在で、天正11年(1583年)5月に信長・信忠の下で京都所司代を務めた村井貞勝の娘婿・前田玄以を京都奉行職に任命して京都の支配全般を任せている。現存している書状によると信雄は玄以に「洛中用事これ有るにおいては、信雄の墨付(指令書)をもつて、何時も申し出るべく候」と指示している。6月に越中国主の佐々成政は信雄について「万端御指南申す儀に候」と述べており、この書状を見る限りでは天下人=織田信雄、補佐役=羽柴秀吉と認識していたものと見られている。10月から信雄は父の信長の天下布武印と同じ馬蹄形の「威加海内」(いかかいだい)印を使用し始めている。
とはいえ、三法師は秀吉が織田家を簒奪する過程においては大切な「神輿」であったため、秀吉はこの政治的には全く無能力な幼児を形の上では盛り立て、わずか4歳で従四位下侍従に叙任させている。なお、織田家の家督は信雄が相続したが、三法師はあくまで織田家の嫡流を継承する者、という位置づけで、秀吉は官位の上ではかなり厚遇することになる。
秀吉の時代[編集]
三法師は元服して諱を「秀信」と名乗っている。秀信の「秀」は秀吉の「秀」であり、それに織田家の通字である「信」をつけている。同じような例に周防の戦国大名である大友晴英(大内義長)と陶晴賢の関係がある。陶氏は大内氏の一族重臣であるから、常に当主の下字を偏諱として授かることが慣例となっていたが、この場合は当主の上字を預かっており、通常とは全く異なっているが、大内氏から陶氏に一字を与えていることから、大内氏が当主という建前は守っている。しかし秀信の場合は、逆に家臣筋の豊臣氏から当主筋に織田氏に一字を与えており、織田氏より豊臣氏の方が上であるという事を見せつける狙いがあったのかも知れない。[1]。
天正13年(1585年)、秀吉は関白となり、豊臣政権を樹立。この時点で秀吉の権力は盤石となり、秀信の利用価値は大きく低下。秀吉は以後、秀信を官位の上で優遇してゆく。秀信は左近衛少将から参議にまで進んだ。所領においては文禄元年(1592年)に13万3000石の岐阜城主に封じられた。朝鮮出兵にも従軍し、文禄4年(1595年)にはキリスト教に入信。慶長3年(1598年)には正三位権中納言に叙任した。
関ヶ原と若死[編集]
権中納言に叙任した年に秀吉が死去。そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きる。秀信の岐阜城は東西両軍のどちらにとっても重要な拠点であり、そのため徳川家康、石田三成の両者から誘いの手が伸びた。
秀信はまず、重臣の木造具政と百々綱家を呼んで意見を求め、両者は家康に味方するように進言。次いで、秀信は寵臣の入江右近、伊達平左衛門、高橋一徳斎らに意見を求め、彼らは三成に味方するように述べた。秀信は三成側が提示した尾張・美濃の2か国の恩賞もあって、三成の西軍に属することを決めたとされる。しかしそのため、岐阜城は下野小山から清州城まで西上してきた福島正則、池田輝政ら東軍の総攻撃を受けることになる。この際、岐阜城には秀信の有する兵力のほかは、三成から送られた援軍が数千来援しているくらいという程度であり、兵力差は圧倒的であった、しかし若い秀信は木造、百々らが止めるのも聞かずに城から打って出て木曽川西岸に陣を張り、東軍と野戦で激突。兵力の多寡もあり、8月23日に織田軍は大敗を喫して岐阜城に逃げ込んだ。岐阜城の七曲口は木造が守備していたが最早勝敗は明らかで、秀信は自刃しようとした。しかし、木造が諫めた、あるいは福島正則が抑えたとも言われて思いとどまった。
「信長の嫡孫」というブランドはまだ生きていたようで、信長の旧臣であった池田輝政が秀信との間に入って降伏の条件をまとめ、命だけは助けるように家康に計らったという。家康も信長と清州同盟を結んでいた仲であり、秀信を助命した。秀信は輝政の家臣に守られて岐阜城下の上加納の円徳寺に移り、ここで剃髪した。
関ヶ原合戦終了後の10月4日、秀信は改易されて高野山へ追放となった。慶長8年(1603年)、秀信の叔母でかつて秀吉の側室だった三の丸殿が死去した際、秀信が三の丸殿の菩提を弔ったという記録がある(『織田家雑録』)。恐らく、父の信忠の乳母だった女性が三の丸殿の生母(慈徳院)だったためと思われる。
追放から5年後の慶長10年(1605年)5月8日、高野山で死去した。享年26。秀信に子女は無く、信長の嫡流はこれをもって断絶した[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
外部リンク[編集]