織田信忠

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが織田信忠の項目をおカタく解説しています。

織田 信忠(おだ のぶただ、弘治3年(1557年) - 天正10年6月2日1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田信長嫡男で、織田氏の当主であり、美濃国尾張国2か国の国主でもあった。

略歴[編集]

父は織田信長であるが、長男とも次男とも言われている。母は生駒吉乃。幼名は奇妙丸(きみょうまる)といい、これは信長が生まれたばかりの信忠を見て「奇妙な顔である」としてそのまま名付けたと言われている。別名は信重(のぶしげ)。官位は秋田城介左近衛権中将。子に秀信秀則の2男がいる。官位から岐阜中将とも言われた。

なお、妻に関しては『寛政重修諸家譜』で「室は武田大膳大夫晴信入道信玄女」とされており、武田信玄の娘・お松信松尼)とされている。

家督相続と活躍[編集]

尾張で生まれる。上洛を目指す信長は後背を安全にするため、甲斐国の武田信玄と婚姻同盟を望んでおり、信玄も上杉謙信らとの対立上から信長との対立は避けたかったので、娘のお松と信忠を婚約させている。

元亀3年(1572年)7月19日、信長の浅井長政攻めの際に初陣式が行なわれている。以後は信長の下で浅井長政、武田勝頼松永久秀播磨国攻め、荒木村重など、各地を転戦して多くの武功を挙げている。また、信長とは別に早くから一軍を与えられて総司令官として経験を積んでおり、奉行なども与えられていた。

天正3年(1575年)、信長から家督を譲られて織田家の当主となり、美濃・尾張の2か国も同時に与えられて岐阜城主となる。ただし実権は完全に父の信長に掌握されており、信忠はあくまで織田家の当主、信長の後継者と位置付けられただけであった。松永久秀攻めの功績により、従三位左近衛権中将に叙任されている。また、家督相続後は戦場に立つことが少なくなった信長に代わって、実質的な総大将として活動することも多かった。

天正10年(1582年)2月からの武田征伐においては、信忠が事実上の総大将として、滝川一益河尻秀隆森長可ら諸将を率いている。信忠の軍勢は各地で武田軍を破って信濃国の諸城を平定した。特に3月2日の武田勝頼の異母弟(お松の同母兄)・仁科盛信が守る信濃高遠城攻めにおいては、信忠自身が戦陣に立って大活躍し、1日で落城に追い込んだとされている[1]。なお、信長自身は勝頼をはじめ、武田軍が徹底抗戦して長期戦になることを予期していたので、信忠には攻め急がず慎重に侵攻するように命じていたが、わずか1か月ほどで武田領を制圧し、勝頼を自害に追い込んだことを信長は賞賛し「天下支配の儀を中将に与える」と述べたと言われている[2]

本能寺の変と最期[編集]

天正10年(1582年)5月、信忠は信長に先んじて上洛し、妙覚寺を宿所とした。手勢は2000ほど率いていたが、妙覚寺だけには宿泊できないので、将兵は各所に分散して宿泊したという。6月1日、信長の宿泊する本能寺にて酒杯を交わし、その後に妙覚寺に戻った。

6月2日早朝、明智光秀謀反本能寺の変)により、父のいる本能寺が攻められていたことを知った信忠は、直ちに妙覚寺にいた手勢500で本能寺に救援に向かおうとしたが、そこに京都所司代村井貞勝がわずかな手勢を引き連れて急変を告げ、既に本能寺が明智光秀の大軍によって炎上していることが伝えられる。信忠は本能寺への後詰を諦め、自分の嫡子・三法師(後の織田秀信)を前田玄以に預けて岐阜に逃れるように命令した後、二条城に移ってここにいた皇太子誠仁親王に落ち延びるように手配し、一時的に明智と和睦した。そして親王の脱出が終わると、二条城において最後の一戦をするべく用意し、奮戦した後に自害した[3]。26歳没。

介錯は近臣の鎌田新介が務め、信忠の遺体は近臣によって隠されたので、明智光秀らに発見されることはなかった。また、二条城の戦いの際に自ら敵兵を斬ったと『惟任謀反記』には記されている。

人物像[編集]

高柳光寿の説によると、天正7年(1579年)に徳川家康の嫡男・松平信康が信長の命令で切腹する信康事件が起きているが、これは信長が信忠と信康の器量の差などから将来を不安視して、信康を葬ったとされていた。そのため、信忠の器量は信康に劣り、凡庸だと見られることが有力視されていたが、近年では信康事件に不可解な点が多く、本当に信長が信康の切腹命令を下したのか、また20歳そこそこで戦場経験も乏しい信康に信忠に勝る力量や実績があったのかなど疑問視される点も多く、少なくとも信忠の力量をこの事件だけで凡庸と見るのは無理がありすぎると現在では見られている。

信長は松永久秀討伐で大功を立てた信忠を賞賛したり、『信長公記』などでも賞賛したとされている。ただその一方で『名将富鉱録』では織田家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されており、信長の評価が分かれている。

徳富蘇峰は『近世日本国民史』において「信忠は英雄ではないが、英雄の子として申し分なき死を遂げた」と評価している。父の信長が偉大過ぎたが、最期は見事だったと評価しているのである。

二条城の戦いの際、村井貞勝・野々村正成毛利良勝ら、信忠の家臣の多くは信忠と運命を共にした。また妙覚寺に逗留しておらず、逃げようと思えば逃げれたはずの小沢六郎三郎松野平介土方次郎平衛らをはじめ、多くの家臣が信忠のいる二条城に駆けつけて奮戦して自害している。明智軍に妨害されてこの戦いに加われなかった者は、追腹を斬って信忠に殉死しており、信忠には信長の嫡男というブランドがあったにせよ、家臣から大いに慕われていたことがうかがえる。

武田信玄の娘・お松と婚約していたとされ、お松は信忠の没後も結婚せずに未婚で生涯を終えている。また、信忠とお松は文通や贈答をやり取りしていたとされ、本能寺で死ななかった場合には信忠の正室として迎えられていた可能性もある。

信忠が生き延びてれていた可能性[編集]

本能寺の変の際、叔父の織田長益をはじめ、多くの者が明智軍の探索を逃れて京都から脱出している。また信忠は明智軍に何ら妨害されることなく妙覚寺から二条城に移動しており、村井貞勝が所司代屋敷から妙覚寺まで妨害されずに逃れたことを見ても明智軍の動きには穴が多く、信忠が脱出できる可能性もあった。だが『当代記』によると信忠は家臣が逃れるように勧める意見を「落ち延びて名も無き者の手にかかれば、父上の名に傷がつく。信忠は城を枕に死ぬ。それより大事なのは宮様方を一刻も早く御所にお移しすること」と述べて拒否したという。

歴史にIFは許されないが、「もし信忠が脱出できていたら」、その後に織田政権が崩壊したり、豊臣秀吉徳川家康が天下をとることができたかなど、様々な意見が現在でもある。なお、『当代記』では信忠が家臣の安土脱出の意見を拒否したとある上で、以下のように記している。

この儀に定めて、惟任深く隠密しける間、路次へその擬(はか)り成らざる間、安土へ御移るにおいては別条あるべからざるところ、御運の末と覚えたり

つまり、光秀は謀反計画が露見しないようにするため、深く秘匿していたから、信忠が逃げた際にそれを防ぐ手立てなど全くしていなかった、というのである。すなわち、信忠が京都から逃げられる可能性は十分にあった可能性がある。実際、信忠はすぐ隣とはいえ二条御所に無傷で襲撃もされずに逃げれているし、村井貞勝も信忠に本能寺襲撃を伝えることができている。信忠が逃げれる可能性は十分にあったと思われ、この辺りが2代目の貴公子としての限界として表れていると言えるであろう。

織田信忠が登場する作品[編集]

小説
テレビドラマ
映画

脚注[編集]

  1. 「中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争って塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、一旦に乗り入るべきとの旨、御下知の間、我劣らじと御小姓衆、御馬廻り、城内へと乗り入れ」(『信長公記』)
  2. 「(信長が信忠に対し)天下の儀もご与奪なさるべき旨、仰せらる」(『信長公記』)
  3. 「御介錯のこと鎌田新介に。御一門歴々、宗徒、家之子郎等、枕を並べて討ち死に。ご命令のごとく死骸隠しおき、無上の煙となしもうし、哀れなる風情目も当てられず」(『信長公記』)